論語でジャーナル’24
ある人禘(てい)の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於(お)けるや、其(そ)れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きかと。其の掌(たなごころ)を指せり。
ある人が「禘」の祭祀についてたずねた。先生は言われた。「禘の祭祀については知りません。禘について理解している者であれば、天下のことについても、それ、ちょうどこれを見るようなものでしょう」と、その掌(てのひら)を指さした。
※浩→前段で、孔子は魯国で執り行われた不正な禘の大祭について不満を持っていることがわかりましたが、孔子は魯国の卿として仕えていましたたから、公式に文公が主宰した禘の大祭が間違っていたと批判することはできないのです。その孔子をひとつ困らせてやろうと、ある人(為政者)が禘について問いかけました。弟子らの質問には、どんな難問でも正面から取り組んで答える孔子ですが、こういう意地悪い質問には、するりと身をかわして、相手にしなかったのです。
「祖霊をお祭りする禘について正確に理解しているならば、それは天下国家が掌中にあるも同然である」と機知の効いた回答を返しました。
この段もわかりにくいところですが、身振りを伴った孔子の会話の活発さ、それを記録しえた文章の活発さが脈々とわかる、と、吉川幸次郎先生。答えようのないことを質問されたときの回答の参考になります。「それがわかるくらいなら、~だってできる」と。もしも先生が、「自分のクラスを思いどおりに掌握するにはどうしたらいいでしょう?」と質問したら、「それができるなら、あなたは世界を支配できるでしょう」というふうに(笑)。これは野田先生からの“又聞き”ですが、学校の先生になる人はほんとは政治家になりたかったのだが、それができるほどの実力がないので、子どもなら支配しやすいだろうと、先生になったと、アドラーが言ったと。私の知り合いで、もと小学校の先生で、のち私の在職する高校に転勤されて、定年退職後は県会議員になられた方がいらっしゃいます。すごい方です。納得しました。
なお、「簡単明瞭な要約を“指掌”という出典がここだそうです。