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スレッドNo.301

論語でジャーナル’24

 祭るに在(いま)すが如くし、神を祭るに神在すが如くす。子曰く、吾祭に与(あずか)らざれば、祭らざるが如し。

 先生は、先祖を祀られるときは、まるで先祖が生きて祭場に来臨しているような気持ちであられた。さらに人間でなく神を祭られるときも、神が人間と同じように祭場に来臨しているという気持ちであられた。次の先生の言葉も同じ気持ちから出ている。「自分は差し支えがあって実際に祭礼に臨席していないと、祭礼がすでに終わっているのに、終わったと実感できない」。

※浩→古代中国の儒教は、秩序を維持する道徳規範であると同時に、祖先崇拝のアニミズム的な宗教としての側面を持っていました。自分と血縁のある祖先は死ぬと「鬼」になって祭儀の場に戻ってき、自分と直接の血縁関係や親類関係にない先人は「神」になって祭儀の場に降臨します。古代中国では祖先の魂は「鬼」、血縁関係のない魂は「神」と区別していました。日本では、「鬼神」と熟語で使われています。畏敬すべき鬼神を真心からお祭りするためには、その祭礼の場に祖先や先人が本当にやって来ているかのような敬虔な気持ちでお祭りして祈る必要があるというのが、新注による解釈です。初めの二句に主語がないので、新注はこれを孔子の「行動」と、子曰くからあとを孔子の「言葉」ととらえています。ここではその解釈に従いました。
 荻生徂徠は、前半を古典の言葉、後半をその証拠としての孔子の言葉ととらえました。「いますがごとく」という句から“かのように”というアドラー心理学の「仮想論」をイメージしますが、これはまったく別の意味です。“想起”をイメージすると、プラトンの「イデア説」が出てきますが、これも別のお話になりますから、コメントはやめておきましょう。ここでは、先祖の霊を祀ることから離れないほうがいいです。そう言えば、わが父は、母と私たち子どもが家のそばの山にあるお墓に参ろうとしていると、自分は玄関にいて、母が誘うのを断って、「仏様はどこにでもいるから、ここから拝んでおけばいい」と言って行きませんでした。合理的といえば合理的で、ユーモアといえばユーモアですが、律儀な人からは無信心だと誹られそうです。今思えば、ある意味、父は「人生の達人」であった感じがします。とにかく手先は器用で、字はうまく、絵も達者で、ものを作るのが大の得意でした。こういうところは私は全然似ていません。もっともっと父と過ごして多種のわざを修得しておけばよかったですが、あとの祭りです。

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