論語でジャーナル’24
子曰く、管仲(かんちゅう)の器(うつわ)小なるかな。或(あ)る人曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰あり、官事摂(かね)ず、焉(いずく)んぞ倹なるを得ん。曰く、然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰く、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ、管氏も亦(ま)た樹して門を塞げり。邦君、両君の好(よしみ)を為すに反貼(はんてん)あり、管氏も亦た反貼あり。管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。
先生が言われた。「(天下の名宰相と言われる)管仲の器量は小さいね」ある人がたずねた。「管仲は倹約だったのですか?」先生は言われた。「管氏には三つの邸宅(三人の夫人)があり、家老の家では、1つの職掌ごとに1人の係を置かず、いくつかの職掌を1人の家臣に掛け持ちさせるのに、それぞれの仕事ごとに1人の使用人を置いた。どうして倹約と言えようか(いや、言えない)」。ある人がたずねた。「それでは、管仲は、礼を知っていたのですか?」先生は答えられた。「君主は、目隠しの塀を立てて門の正面をふさぐのが礼ですが、管氏も(家臣の身分でありながら)やはり塀を立てて門の目隠しをしました。君主が他国の君主の訪問を受けたときには、座敷の両側の2本の大黒柱の中間に盃を置く特別な台を設けるが、管氏も(家臣の身分でありながら)それを作った。管氏が礼を知る人間と言われるなら、礼を知らない人間なんてこの世の中のどこにもいやしない。
※浩→『管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)』の故事成語で知られる斉の名宰相であった管仲ですが、孔子は管仲が「家臣としての分をわきまえず、君主・諸侯と同等の権限を振るった」という理由で管仲の器量が小さいと苦言しています。管仲は、孔子より200年ばかり前の春秋時代の初期に、斉の桓公(紀元前685-643ころ)を助けて、桓公を春秋の覇者にした忠臣です。あとの「憲問篇」では、賞賛の辞を贈っているのですが、ここでは批判しています。管仲が臣下の身でありながら君主・諸侯だけが持つ特権を侵していて、礼の何たるかをまるで理解していなかったと。君主の特権とは、「三国から夫人・夫人の妹・夫人の姪をめとることができ、合計9人の妻(正妻と側室)を持つことができること」「門の中央に目隠しのための塀を立てることができること」「他の諸侯(国君)と酒を酌み交わす場合に、特別な台を置けること」です。斉の覇権確立に対する功績(貢献)が大きい管仲は、特例として、家臣の身分でありながらこれらの特権を許され、その特権を行使していたのでしょう。現代の政治家の「礼」の実践はどうでしょうか?高い地位につくほど、一般市民からかけ離れた特権の行使を極力少なくする工夫が必要でしょう。ドラマ「相棒」の最近作に、内閣幹事長が絶大な権力を持っていて、自由自在に首相を入れ替えることができるように描かれていました。何となく実在の人物を思わせて苦笑してしまいました。その幹事長は衆議院が解散されると直ちに辞任していました。演じる役者が憎たらしいほど名演でした。折しも本日が衆議院選挙です。さて……
「管鮑之交り」の故事はよく知られていますが、おさらいしておきます。出典は『史記』です。「管鮑の交わり」とは、互いによく理解し合っていて、利害を超えた信頼の厚い友情のこと、きわめて親密な交際のことを言います。「管」は春秋時代、斉の名宰相の管仲で、「鮑」は鮑叔牙(ほうしゅくが)、単に鮑叔とも言います。管仲と若いときから仲が良く、仲を斉の桓公に推挙しました。春秋時代、斉の桓公に仕えた宰相の管仲と大夫の鮑叔牙とは幼いころから仲が良く、ともに商売をして管仲が分け前を余分に取ったときも、鮑叔牙は管仲が貧しいのを知っていたので決して非難せず、管仲が鮑叔牙のために事を計画して失敗し、逆に鮑叔牙を困窮に陥れたときも、鮑叔牙は時には利と不利があるとして決して非難しませんでした。また、管仲が戦に敗れて逃げてきても、鮑叔牙は母を養っているのを知っていて決して悪口を言わなかった。のちに、桓公に管仲を推薦したのも鮑叔牙でした。管仲も「我を生む者は父母なり、我を知る者は鮑叔なり」と言って、鮑叔牙の厚意にいつも感謝し、二人の親密な友情は終生変わらなかったそうです。出典は『十八史略』です。
似た熟語に、「刎頸の交わり」(ふんけいのまじわり)がよく挙げられます。他にも、「知音」、「水魚の交わり」、「竹馬の友」(晋書)など、似た意味の語は多いです。最近のドラマなどを見ていると、信じていた友に裏切られて、それに対して復讐を企てるような陰気なお話が多いですが、見終わってイヤな気分が残ります。私はやはり「美しいお話」がいいです。心が浄化されます。