論語でジャーナル’24
子曰く、上(かみ)に居て寛ならず、礼を為して敬(つつ)しまず、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てかこれを観んや。
先生が、言われた。「高位高官にありながら、寛容の徳を持たず、礼制の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにしてその人を評価すればよいのだろうか(いや、どこにも見るべきところなどない」。
※浩→孔子は、季氏をはじめ、魯の有力政治家の無教養で厚顔無恥なふるまいを、暗に非難しています。人民に対する寛容の精神を持たず、まごころからの思いを込めずに形式だけの礼を実践し、葬式に赴いても哀悼の感情を表現しないのが現状でした。大きな権力や裁量を持てば持つほど、人は謙虚に寛容に振る舞い、自分の政治に従っている民衆の幸福を願って行動しなければならないという儒教の徳治の理想がよく表れています。これが本来の儒教のあり方です。
人の上に立つ者に必要なのは「寛容」 、儀式を行う場合に必要なのは人間に対する「敬意」、葬式に立ち会ったときに必要なのは「哀しみ」、と吉川幸次郎先生は解説されます。「寛容」は、アドラー心理学で考える「良い人間関係」の条件の1つでもあります。
寛容であることも、良い人間関係を築く上で大切な要素ですが、かなり見逃されているようです。それは、人間関係の背後に、正不正、善悪の判断が入りこんでいるからです。
正義や善は相対的なものです。時とともに民族とともに、あるいは個人個人で、正義や善、不正や悪の基準は違います。自分の正義、自分の善を絶対的な善である、絶対的な正義であると思い込むことが、数々の不幸を生んできたと考えます。
近代のほとんどの戦争は、正義の名の下に行われました。第2次世界大戦の枢軸国側には枢軸国側の正義が、連合国側には連合国側の正義がありました。ともに自らの正義を信じて戦い、そして多くの人を殺しました。自然死、病死、事故死以外で、人間の死因として最も多いのは「正義による死亡」のようです。
正不正の観念、善悪の観念を持つこと自体は良いことですが、自分の善悪の観念を絶対的なものだと思い込んで、他人がそれと違った善悪の観念を持っているとき、それに対して不寛容になって、それを攻撃し迫害するのは、独善的な態度だと思います。
現在、戦争している地域のリーダーたちにはこういう視点が欠けているんでしょう。とにかく、まず武力闘争を中止して、どうあっても対話の場を設けることですが、世界の誰の忠告にも耳を傾けないという現状では、一向に解決に兆しは見えてきません。人類の愚かさ、ここに極まれりの感ありです。
・・・八佾篇 完