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スレッドNo.330

論語でジャーナル’24

第四 里仁篇

 子曰く、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択(えら)びて仁に処(お)らず、焉(いずく)んぞ知たるを得ん。

 先生が言われた。「仁の徳に住み着いていることは立派なことである。他の何よりも、仁の徳を取り出して、その上に居所を定めることができない人は、とても知者とは言えない。

※浩→具体的に物を考える古注派の鄭玄は、ここの「仁」を、抽象的な概念でなく、仁を体現する人、仁者と考え、「仁者の住んでいる里に住み着いていることは良いことだ」と解しました。荻生徂徠は、「仁」を学者でなく「仁の徳」としていて、こちらのほうが孔子の本来の意味であろうと貝塚茂樹先生は解説されます。
 仁の徳を選ぶこと、それは知者の立場です。知者とは孔子の門下に集まる弟子たちの立場です。ここは知者としての弟子たちに対して、仁の現れ方を説明しようとしていると、こう解釈すると、次の条の「仁者は仁に安んじ、知者は知を利とす」とつながります。
 知者は「現状」(相対的マイナス)で仁者は「目標」(相対的プラス)でしょうか。仁は抽象的概念(理想像)で、何となくアドラー心理学の「共同体感覚」を思わせます。似ているなんて言うと、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と野田先生に叱られそうです。でも連想だけなら許されるかもしれません。ずっと昔、アドラーのお弟子さんが、「共同体感覚はどうやったら教えることができるか?」とたずねて、アドラーは「Live it.」と応えたそうです。「あなたがそれを生きろ」ということです。孔子の「仁」は内面的で、それが行為として現れたのが「礼」だそうです。心のともなわない形式だけの礼を批判して、真心から出た礼こそ真の礼だと教えたのでしょう。それでも、「仁」を一言で説明することはできないので、様々な場面で様々な言い方をしています。共同体感覚も同じです。そういえば、「愛」の定義も一言では言えないです。まず思い出すのは、「新約聖書・コリント人への第一の手紙」の使徒・パウロの言葉です。↓
 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 これではうっかり「愛しています」とは言えなくなります。これだけの条件を満たした行動など現実にはありえないでしょうから。アドラー博士が「愛」という語を使うのに慎重であったというのがよく理解できます。でも、これはあくまで「理想」「目標」ですから、それを目ざすというプロセスを大事にしていけばいいのだと思います。宗教でなく心理学では、やはりエーリッヒ・フロムの『愛するということ』に限ります。アドラーが「愛のタスク」と言うときは、これは別に胸キュンの愛を言っていなくて、「対人距離の近さ」を言っています。他の「遊び」「仕事」「交友」のタスクに較べて、永続する近い距離の運命をともにする対人関係を言っています。すなわち、「家族」と「恋人」と言えばいいでしょう。フロムは新フロイト派ですが、アドラーにとても近い考えで魅力的です。

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