論語でジャーナル’24
子曰く、苟(いや)しくも仁に志させば、悪しきこと無き也(なり)。
先生が言われた。「もし人が少しでも仁を行う意志を持つならば、他人から憎まれるはずはない」。
※浩→「苟」の読み方に2説あるそうで、朱子は「まことに」と読み、荻生徂徠は「いやしくも」と読むと、吉川幸次郎先生の解説にありました。吉川先生は徂徠の説です。
孟子は、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」と書いています。自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう」の心意気、すなわち「浩然の気」で、この「浩」が私の名前の由来です。「浩然の気」はアドラー心理学では「勇気」でしょう。
現代社会は不条理で「善因必ずしも善果をもたらさず」のようです。『旧約聖書』のヨブのような、いわれのない苦難・災難が続いたりします。実はいわれはあります。神がヨブに試練を与えたのです。はじめヨブは自らの潔白を主張し続けます。ヨブの悲惨な姿に失望して妻が去り、さらに信頼していた友人たちがヨブにこれほどの災難が来るのはきっと隠れて罪を犯していたに違いないと考えて去っていきます。絶望のどん底でついにヨブは神と対決して徹底的に打ちのめされます。そうして真の信仰に至るというストーリーですから。
世の中がどんどん乱れて、純粋に人間の善意を信じることが困難になりました。アドラーはニーチェの「永劫回帰」や「運命愛」の影響を大きく受けていますから、もっと深くアドラーを読み込めば、ヒントが見つかるのかもしれないですが、世の中の大きな流れをどうやって食い止めたらいいのでしょう。カミュの「不条理の哲学」の出番でしょうか。『異邦人』はあまりにも有名ですが、新潮文庫に「カリギュラ・誤解」という一冊があって、これも私の大好きな一冊です。『異邦人』をふり返ってみましょうか。
主人公ムルソーは、母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人をさつ害し、動機を「太陽のせいだ」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。
刑務所に入って、はじめは夜も眠れず、昼間は全然眠れなかった。だんだんと、夜は眠りやすくなり、昼間でさえも眠るようになった。ここ数か月は、毎日16時間から18時間眠り、したがって残りは6時間となるが、食事や用便や思い出やチェコスロバキアの出来事の記事を古い新聞で読んで過ごした。藁布団とベッドの板との間に、実は、1枚の新聞を見つけたのだ。すっかり布に張りついて、黄色く、裏が透けていた。その紙は、頭のほうこそ欠けていたが、チェコスロバキアに起こったらしいある事件を載せていた。1人の男が金を儲けようと、チェコのある村を出立し、25年ののち、金持ちになって、妻と1人の子どもを引き連れ、戻って来た。その母親は妹とともに、故郷の村でホテルを営んでいた。この2人を驚かしてやろうと、男は妻子を別のホテルへ残し、1人で母の家に行ったが、男が入ってきても、母は息子だと見分けがつかない。男は冗談に一室借りようと思いつき、金を見せた。夜中に母と妹は男を槌で殴りころして、金を盗み、死体は河へ投げ込んだ。朝になって、男の妻が来て、それとは知らずに、旅行者の身元を明かした。母親は首を吊り、妹は井戸へ身を投げた。ムルソーはこの話を数千回も読んだ。一面、ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前の話でもあった。いずれにせよ、この旅行者はこうした報いを受ける値打ちがないわけでもない、からかうなんぞということは断じてすべきではない、と彼は思った。
主人公ムルソーは不道徳で無責任な人だろうか。違うようです。次のような解説があります。
「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他はないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことを言うだけでなく、あること以上のことを言ったり、感じる以上のことを言ったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところと違って、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……。
ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える。しかし彼は1つの真理のために死ぬことを承諾したのだ。「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である」という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ」。
うーん。「不条理の哲学」は20世紀の哲学でしたが、21世紀の今もそうなんでしょうか。東洋ではやはり「老荘」でしょうか。老子の逆説の処世法が有効なのかもしれません。あれは何しろ乱世を生き抜く智慧ですから。また読み返したくなりました。アドラーが第一次大戦の戦地から帰ってウイーンのホテルのカフェで「今世界が必要としているのは、新しい政府でも兵器でもない。それは共同体感覚だ」と言ってから100年になります。人類はほんとに進歩しているのでしょうか?