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スレッドNo.340

論語でジャーナル’24

 子曰く、我未だ仁を好む者、不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うるなし。不仁を悪む者は、それ仁を為すなり。不仁者をしてその身に加えしめず。能(よ)く一日もその力を仁に用いるあらんか。我未だ力の足らざるものを見ず。蓋(けだ)しこれあらん。我未だこれを見ざるなり。

 先生が言われた。「私は今まで、仁を好む、人間性を好む人、また一つは不仁を憎む人に会ったことがない。仁を好む人には、もちろんそれ以上注文のつけようがない最上の価値である。不仁を憎む人間も、それは仁の道徳を行う者であると言える。なぜなら、不仁、つまり仁の徳に背いた人を憎むことによって、その不仁者にそれ以上不仁な行いをすることをなくさせるからで、そうすれば、さらにその不仁者でも一日くらいなら、その力を尽くして仁を行うことができるのではなかろうか。私はその力さえ不足する人にはまだ会ったことがない。いや、そんな人がいるとは考えられるが、そんな人に今まで会ったことはない」。

※浩→この一節は『論語』で最も難解な文章の1つだそうです。そこで、貝塚茂樹先生と吉川幸次郎先生の訳と解説をミックスして、自分流にまとめてみました。
 「不仁者といえども、一日くらいなら積極的に仁を行うくらいの能力は持っている。その能力がないという人間はまだ見たことがない」というのは、「どんな悪人でも一日くらいは善いことができる能力を持っている」ということでしょうか。アドラー心理学では、子どもを勇気づけるのに、「不適切な行動に注目しないで適切な行動に注目する」、また「不適切な行動の中の適切な面を探してそこに注目する」とあります。どんな子だって、一日二十四時間不適切な行動をしているわけがない。ほとんど適切に暮らしているはずですが、親の眼には「不適切なこと」がすぐ見えてしまいます。また、たとえ親の眼には不適切な行動であっても、子どものその行動の動機は「善」だったかもしれません。善いことをしたいという意志はありながら、勇気をくじかれていたりして、それができないでいることに気づいてあげる必要があります。
 孟子の「性善説」「四端の心」を思い出します。
 中国、戦国時代の儒者・孟子の用語で、惻隠(そくいん)(哀れみ)、羞悪(しゅうお)(廉恥(れんち))、辞譲(じじょう)(謙譲)、是非(ぜひ)(善悪の判断)の4つを言う。ともに道徳的情操であり、それぞれ仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)の四徳に対応する。「端」は兆し(きざし)。心に兆す四徳の芽生えが、四端である。例えば、幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、人はだれでも哀れみの心を起こすが、それはその子の親に近づこうとか、同郷人に褒められたいとかいった打算を超えた人間の自然な感情である。それを仁の端とするのである。四端を拡大していけば、人間の善性は完全に発揮できると言う。(←『小林勝人訳注『孟子』上下(岩波文庫)』 )
 そう言えば、アドラー心理学の「共同体感覚」も、生まれながらに持つ素質ではあるが、生後に育成していかないと育たないとありました。これが怠られて、今のような自己中心の人が溢れることになったのでしょう。
 コロナ前には、外国人観光客が各地に溢れていました。それほど外国人には魅力的な日本なのでしょうが、さて、内情はどうでしょうか。家庭では幼児・児童虐待があとを絶たない。学校では、生徒間では「いじめ」の多発、被害者の自死。教師は授業の成り立たないクラスに苦慮し、過剰な校務、部活動で休日返上。何かにつけて、すぐクレームを言いに怒鳴り込んでくる保護者への対応……。高齢者を狙った特殊詐欺の巧妙化。政治の世界では、モラルを失った議員の多いこと。野党は政府与党の「揚げ足取り」に終始、本来の法案審議がはかどらない。近隣諸国との軋轢。カトリック教会でも、聖職者による少年への性的虐待が問題になっているとか。いったい世の中はどうなっているんでしょう……。
 こういう悲惨な現状ではあっても、アドラー心理学の「適切な面に注目して」いくしかありません。昔、野田先生が「大きな物語は崩壊した」とおっしゃっていました。アドラーが期待したような「人類の進歩」とか、「国際平和」とか、大きな物語は確かに崩壊しています。仕方ないので、もっと小さな小さな、せめて自分のまわりの人たちとの「あなた&私ペア」で、協力的な尊敬・信頼関係を築いていくしかないようです。何とも寂しいことではあります。諸行無常とおっしゃたたお釈迦様は凄い!

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