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スレッドNo.342

論語でジャーナル’24

 子曰く、民の過(あやま)つや、各(おのおの)その党においてす。過ちを観れば、ここに仁を知る。

 先生が言われた。「人民の過ちは、それぞれの住んでいる里の風俗の影響によるものである。人民の過ちを見れば、仁徳の感化がどこまで進んでいるかがわかるであろう」。

※浩→従来の朱子の解釈では、「人の過ちはその人の類(たぐい)によっていろいろの形で現れる。君子(有徳の人)は人情の厚さに失するし、小人(徳のない人)は酷薄さに失する」となっていますが、『論語』で「党」を「類」の意味では使わないという荻生徂徠の「党は郷党」とする説に、私も賛成です。古い注釈では、「党は党類なり」と言われていて、「隣里郷党」つまり地方の地域共同体、その成員としての「党人」を指しました。「人民は里の風俗によって感化されるのだから、政治家はその過ちをあまり責めないで、かえって自己の感化の至らざることを反省せねばならない」ことを、婉曲に述べているようです。政治家に対して、人民のみを責めないで、自己の徳の修養につとめよと暗示したのが、もともとの孔子の意図ではないでしょうか。徳治政治ですから。
 人格形成が環境に影響はされることは、後代の孟子のエピソード「孟母三遷」でもわかります。アドラー心理学では、遺伝と環境は人格形成への影響因子で、決定因子はあくまでも本人の態度決定であると考えます。
 戦後の日本では、伝統的な地域共同体が崩壊して、特に都会では、核家族の増大、集団住宅(マンションなど)の増加で、個人主義が徹底して、隣家とのつきあいさえないような状況です。「子どもは地域が育てる」という伝統が廃れましたし、核家族化してしかも自己中心的な親によって育てられる子どもは、いったいどんな人格に育つのでしょうか?昔は、よその子でも、悪いことをしたら近所のおじさんやおばさんが叱りました。これが当たり前でした。今はそんなことをすると、親が怒鳴り込んできます。幼児・児童虐待や育児放棄などは、いつごろから起こってきたのでしょうか。家庭も学校も崩壊状態に近いようで、この国の未来に不安を抱きますが、限りある命を今をせめて隣近所とのおつきあいは大事にしていきたいです。

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