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スレッドNo.354

論語でジャーナル’24

 子曰く、利に放(よ)りて行なえば、怨み多し。(2)

 「大きな物語の崩壊」は、野田先生もポストモダン旋風が吹いていたころ、詳しくお話されていました。ネットの力もたくさん借りて、まとめてみました。

 国連の機能が麻痺状態のようで、地域紛争が一向に解決の兆しを見せないことで、野田先生もよくおっしゃっていた「大きな物語の崩壊」ということを思い出しました。ネットの記事にもとづいてポストモダンの考え方を整理してみました。もちろん、アドラー心理学はモスとモダンの嵐にさいなまれないようにしっかりとアイデンティティーを確保してはいます。
 リオタール「大きな物語の崩壊」について─
 「大きな物語」とは近代のことです。16世紀のデカルトから、19世紀のヘーゲルをへて20世紀のフッサールまでの近代哲学の根底にある前提は、それ以前の神に代わって人間が世界の主役になったということであり、社会というものを個人を中心に考えることになったということであり、個人の自由や権利を守るために近代の法体系が作られたことであり、個人の私有財産制が始まったということ、です。私たちはその出来上がった社会の仕組みやものの考え方に馴染んでしまっているので、それが「物語」であり、人為的に作られたもの、制度であることがわからなくなっています。しかし、近代哲学が批判されて、その人間中心の仕組みに疑問が呈されるようになり、「大きな物語」が終わったのではないかと言われだしました。それを「ポスト・モダン」と言います。
 1960年代から、公害問題や自然破壊の問題や、地球環境の排気ガスによる温暖化などの、人間中心の近代の弊害がたくさん出てきて、人間中心の考え方がどこかおかしいのではないかと言われて、近代哲学が批判され、その近代哲学にもとづく学問の体系が疑わしくなってきたことが背景にあります。
 まず、社会主義は近代化論です。だから近代化が進んだ英仏では革命が起こらず、近代化に遅れた辺境であるロシアや中国で革命が起こりました。その社会主義も1968年にソ連の戦車がプラハに侵入したことで化けの皮が剥がれ、幻想が終わりました。
 また文学は1980年代に終わったと言われました。それは18世紀の西欧の近代とともに始まった制度です。決して普遍的なものではありません。ただ、どこの国も近代国家を作るときに神話が必要でしたから、文学というものを過去にさかのぼって古い伝統を有していると作為しました。わが国も同様で、万葉集や源氏物語から文学の古い伝統を有していると学校で教えました。日本文学史なるものも作為されました。作為ということはフィクションだということです。そのフィクションが第二次大戦後、崩壊し、文学という制度が終わりました。ポスト・モダンとともに社会主義も文学も終わりました。こうしたことも「大きな物語」の終焉だと思います。

 「大きな物語」は具体的にはたとえば次のようなものです。

 科学による社会の進歩
 資本主義
 民主主義
 労働の解放
 教育による平等
 民族独立

 大まかにまとめると、理性的で自律的な主体が合意によって真理と正義を共有しながら、進歩思想を中心に社会を運営し、社会の進歩や人間の幸福を実現するといった物語だと言えます。このような物語を、リオタールは「大きな物語」という言葉で表現しました。
 大きな物語はしばしば「メタ物語」と呼ばれます。メタ物語と呼ばれる所以は乱立するさまざまな理念を制して、大きな物語が絶対的な優位性を持つためです。「大きな」物語というとき、物語の内容が気宇壮大なものを意味するわけではない。「大きな」物語とは、「物語自体が社会に広く共有されている」ことを意味する。
 大きな物語は現状を劣ったものとして、物語の提示する理念によってのみそこから救済されることを語ります。大きな物語とされる理念の内容はそれぞれ異なるかもしれませんが、そこにはこのような共通の特徴があります。

☆大きな物語の事例
 リオタールは次のような事例を挙げています。
・啓蒙主義の物語
 啓蒙主義は、認識と平等主義によって無知と隷属からの解放を示す物語。理性を獲得した人間は、合意形成をもとに普遍的な平和をもたらす
つまり、知識と訓練の不足による蒙味状態から人々を救済するという啓蒙主義の物語。啓蒙主義の物語には、先ほど説明した近代の理念の3つの特徴があることがわかると思います。
 異なる事例として「搾取からの解放というマルクス主義的物語」や「富の蓄積と経済発展という資本主義的物語」があります。どの物語も人びとの圧迫した状況を解放する物語という点では共通しています。リオタールによれば、19世紀・20世紀における人間の行動と思想はこのような大きな物語に従っていたのです。

☆大きな物語の終焉
 このように、大きな物語の樹立は近代における人間の思想と行動を説明するものでした。リオタールは近代以降の大きな物語がその自明性・信頼性を失った状況を「ポストモダン」という言葉で説明しました。ポストモダン論の一例としては、ジャン・ボードリヤールの「記号消費」といった分析があります。
 従来の社会学は経済を中心にしていましたが、記号的な消費活動に注目してポストモダンな社会を消費社会と呼びました。

☆小さな物語
 小さな物語の事例は「この物語だ」と特定することは難しいですが、大きな物語では語られなかった物語と考えると簡単です。
 大きな物語はその性質上、普遍的な歴史を語ろうとします。例えば、啓蒙主義は理性を獲得した人間が、真の共同体を形成すると考えます。そこに人類の普遍的な歴史を語ろうとする姿勢が見えます。一方で、小さな物語は大きな物語の前提を疑問視し、自己の言説を表現しようとします。例えば、西洋中心史観を否定するものとしてポストコロニアリズムを小さな物語と言うことができるでしょう。植民者が語る歴史だけが歴史ではないという思想は抵抗から生まれたものであり、普遍的な歴史の自明性を失わせるものです。
 ポストコロニアリズムとは、植民地主義に対する先鋭的な思想や理論です。ポストコロニアリズムで先駆けとなったのは、フランツ・ファノンです。代表作に『黒い皮膚・白い仮面』『地に呪われる者』があります。サイードの『オリエンタリズム』やスピバックの『サバルタンは語ることができるのか』はポストコロニアル論の代表的な理論です。
 このように、小さな物語とは、大きな物語への不信から自らがメタ物語にはなろうとしない複数の言説が持つ異質性を担保し、そのような言説を増やしていこうとするといったこと特徴があります。
 ここで注意しなければならないのは、モダニズムとポストモダンの関係です。リオタールは、モダニズムとポストモダンを時代の区分として捉えていないことに注意してください。モダンと断絶された時代があるのではなく、むしろ「ポスト」という接頭辞が示すように、モダンという土台を足場としてされるある理論的な運動です。

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