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スレッドNo.367

論語でジャーナル’24

 子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省み(かえりみ)よ。

 先生が言われた。「才徳すぐれた人に会うと、自分もあのとおりになりたいと思い、才徳劣る人に会うと、自分もそのとおりではないかと反省すべきだ」

※浩→吉川幸次郎先生の解説では、「賢」はただ「頭が良い」という意味でなく、才能徳行が他人よりまさっている人のことだそうです。自分より優る人を見ると嫉妬し、自分より劣った人を見ると、優越感を覚えて安心するのが人情でしょうが、孔子はそれとは逆に、すべてこれを鏡として自己反省を行うよう説いています。
 自分もアドラー心理学に出会うまでは、すぐれた人には大いに嫉妬し、自分以下と思う人には「あれよりましだ」と安心もしていたと思います。アドラー心理学を知って、目ざす「方向」は定まったとはいえ、客観的に見ると実際の行為はほとんど変化していないかもしれません。自分の思い込みと現実とはずれているでしょうから。野田先生はよく、「アドラー心理学はひとりでは学べない」とおっしゃっていました。「本や講演」で学んだことを日常実践して、さらに仲間との交流を通して、自分のアドラーを修正し合っていく必要があると。
 さすがに後期高齢者にもなると、自分よりもすぐれた人を見ると、素直に感動できるようになりました。感激して泣きそうにもなります。ときどき自分のほうがマシだと思う人にはまだまだ優越感を覚えかけても、すぐに「いけない、いけない」と自戒できるようにはなりました。
 朋友たちで気の早い連中はすでに「あの世」の住人になりました。私は未熟なままこの年齢まで生きています。ま、どこまで行っても人間は「不完全な」存在ですから、「もうこれで十分」と思ったら、この世にいなくなるでしょうから、不完全のまま、もうあまり自分を責めないで、なるべく清く正しく生きていきます。お前、宝塚か!

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