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スレッドNo.370

論語でジャーナル’24

 子曰く、父母に事(つか)うるには幾(ようや)くに諫(いさ)む。志(こころざし)の従われざるを見ては、また敬(けい)して違(たが)わず。労して怨まず。

 先生が言われた。「父母のおそばで用事をしていて、誤りを見つけたときには、まず遠回しに諫言申しあげよ。諫めを取り上げられない意向と察したら、謹んでこれに違背しないようにし、心の中では憂慮していても、怨みを抱いてはならない」。

※浩→「志の従われざる」の「志」は父母の意志・気持ちで、父母の気持ちがこちらの勧告に従いそうにない場合」ということ。「労して怨まず」は、通説は「父母から労働を課せられても安んじて従い、怨みがましくイヤそうな様子・気持ちを持ってはならぬ」ですが、他説に「労」は「憂」とあるので、「心配はするが、怨みがましい気持ちは持たない」と訳すと、前後のつながりがよくなるので、こちらを採用しています。
 私が父を送ったのは1965年(22歳)でした。新採用で井原市立高校に勤務して1年の春でした。「夜間部」で授業をしているとき、病院(済生会病院)にいる妹から「父危篤」の連絡が来ました。井笠鉄道(現在は廃線)と山陽線を乗り継いで病院へ駆けつけましたが、ちょっと前に息を引き取ったところでした。享年55歳でした。母は父の入院時から病院に泊まり込みで介護していました。子どもから見ると夫婦仲は良くはなかったようですが、父は息を引き取るとき、母に「すまなかった」とひとこと言ったそうで、母は、「そのひと言で救われた」と述懐していました。
 子どもから見て、典型的な“頑固おやじ”だった父には、仮に誤りを見つけたとしても、たとえ遠回しであろうとも、諫言などできません。想像すらできません。ひたすら懼れて遠ざかり完全にマザコンになりました。2歳下の妹は、私から見ると、父にとてもかわいがられていました。今でも思い出すのは、妹は父にお風呂に入れてもらっていました。私は一度もそういう体験はありません。父はお風呂上がりには、「ぬくもって出るん?」とか、壁の傷を見つけてか「あっこ、破っとん?」とか、浴槽内で妹が語った言葉を嬉しそうに繰り返して、妹をあやしていました。記憶の不正確なところは、妹が訂正してくれるでしょう。私はは始終母親にくっついて、劣等感を補償したことでしょう。逆に父親から見れば、いつも母親べったりの私に好感をいだけなかったのかもしれません。私には5歳上の兄がいました。彼は10歳で病死しました。兄が誕生のときは、父は戦争に行っていなくて在宅でした。私が誕生のときは戦地でした。妹が誕生のときは在宅でした。そのため、父は私をかわいくないのだと勝手に思い込んでいました。
 母には甘えきっていて、ずっと苦労をかけてきました。それでも、87歳の天寿をまっとうしました。その母には「言いたい放題」を言って親不孝をしたと今では心から悔いています。私にできなかった分を相棒・K先生が、郷里でご健在のご両親に徹底して孝行を尽くされています。

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