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スレッドNo.391

論語でジャーナル’25

第五 公冶長篇

1,子、公冶長(こうやちょう)を謂わく、妻(めあわ)すべし。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、その罪に非ざるなりと。その子を以てこれに妻す。

 先生(孔子)が公冶長を評して言われた。「公冶長は娘を嫁にやってもよいほどの人物である。罪人として牢獄に入れられたこともあったが、実際には無実であった」。そして、自らの娘を公冶長の嫁とした。

※浩→公冶長は姓は公冶、名は長で、魯の生まれと言われます。彼は鳥の言葉を理解して伝達するという特殊技能を持っていたようですが、その詳細については明らかではありません。ただ、ある殺人事件が起こったとき、鳥どもの言葉から、屍体のありかを知り、そのため殺人犯の嫌疑を受けたという話があります。縲紲(るいせつ)は、罪人を縛る黒色の縄のことです。孔子は無実を信じて、自分の娘を嫁がせたそうです。「孔子が、自分の信ずるところには、あくまでも勇敢である態度の1つの表れであろう」と吉川幸次郎先生は解説されています。論語の他の篇に「公冶長」の名前や事績(問答)が残っていないことから、実際には儒家として大成しなかったとも言われているようです。万事に慎重なはずの孔子が、どこか見所があると思うと、その前歴にかまわず娘を嫁がせるというのは、意外な話です。この突飛な行動が弟子たちにショックを与えたので、この条が「公冶長篇」のトップに置かれたのではないかと、貝塚茂樹先生。弟子から、温・良・恭・倹・譲と形容される孔子の性格には、こんな無鉄砲な行動をする半面もあったと、これも貝塚先生の解説です。今の世の中、いつ身近な人に裏切られるかもしれないぶっそうなことが多いです。孔子のように芯から人を信じることができればどんなに素敵なことでしょう。アドラー心理学を学んで、「信用」と「信頼」の違いを知りました。「信用」は基本的はその人を信じていなくて、何か証拠や担保があれば、それを信じるということです。「信頼」は、証拠も担保もなくても、ただ信じ切ることです。そして、「良い人間関係」の条件の中に、「相互尊敬・相互信頼」ということが含まれています。この「相互」というのは、「自分のほうから先に」ということです。なかなか実践は難しいです。

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