論語でジャーナル’25
2,子、南容を謂(い)わく、邦(くに)に道あれば廃(す)てられず、邦に道なきときも刑戮(けいりく)に免るべしと。その兄の子(こ)を以てこれに妻(めあわ)す。
先生は南容を評して言われた。「国家に正しい政治が行われているときにはきっと用いられ、正しい政治が行われていないときにも刑罰を科されることはないだろう」。そして、自分の兄の娘を南容の嫁にした。
※浩→南容は孔子の弟子で、氏は南宮、名は稻(この字の糸偏:トウ)、字(あざな)は子容、略して南容です。孔子は自分の兄の娘の夫としました。南容は、魯の有力貴族であった三家老の一つ孟孫氏の令息で身柄のしっかりした人物だったので、孔子は自分の兄の娘の婿にしても問題ないと判断したようです。自分の娘の婿には前科者とされたことのある公冶長を迎えたように、孔子は自分の娘の婿の場合には家柄や身分にこだわらなかったのです。しかし、兄の娘の婿を推薦する場合には「正義のある国で重臣となり、正義のない国でも刑罰を科されない」ような無難な人物である南容を選んだのでした。公冶長はたとえ無実の罪にしても投獄されたことがあります。その彼には孔子は自分の娘を嫁がせ、自分の兄の嫁には、南容のような貴族の息子で間違いのない人物を嫁がせています。
これに類似した体験を私は持ち合わせませんから、コメントできません。「目上」をうやまう礼儀正しさは伝わってきます。今日の日本では、年寄りはとかく軽視されがちです。中国語では、日本語の「先生 teacher」を「老師 lao3shi1」と言います。「老」という言葉にすでに“尊敬”が込められています。“老獪”というと「ずるがしこい」という意味で敬称ではないですが、年を取り徳の高い人、また物事をよく知っている人を「老先生」「父老」「古老」「故老」とも言い、経験を豊富に積んで上手なことを「老巧」「老練」「老成」「老大家」とか言います。それなら人口の高齢化が進んで賢い人が増えるなら、世の中どんどん良くなっていくはずですが、そうでもないようで残念な気がします。