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スレッドNo.414

論語でジャーナル’25

11,子曰く、吾(われ)未(いま)だ剛者を見ず。ある人対(こた)えて曰く、申棖(しんとう)あり。子曰く、棖(とう)は慾あり。焉(いずく)んぞ剛なるを得ん。

 先生が言われた。「私は剛健な人物を見たことがない」。ある人が答えて言った。「(あなたの弟子の)申棖がいますよ」。先生は言われた。「棖には、欲がある。どうして剛健と言えるだろうか?(いや、言えない)」。

※浩→孔子にとっての剛者とは、ただ肉体的な腕力が強いものではなく、精神的な意志も合わせて堅固なものを言います。ある人(貴族でしょう)は、「申棖という剛力無双の屈強な勇者がいるじゃありませんか?」と孔子に言った。しかし、孔子にとっては、自分の欲望に打ち勝てない軟弱な精神の持ち主である申棖はいくら膂力(りょりょく=筋肉の力・腕力)に秀でた豪傑であっても)「真の剛者」ではなかったのです。
 真の「強さ」についてあらためて考えさせられます。ただ肉体的に腕力が強いのではなく、精神的な意志を合わせて「剛」と言うということは、肉体的な力を否定しているわけではないです。『尚書』に、人間の3つの徳として「正直、剛の克(ちから)、柔の克」とあります。ここにも「剛」と「柔」は同列に並べられています。日本では、「気は優しくて力持ち」と言われてきました。
 「欲」については、『礼記』「楽記篇」に、「人、生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。それ物の人を感ずるは、窮まりなし。しかして人の好悪節(さだ)めなければ、すなわちこれ物至りて、人、物に化せらるるなり。人、物に化せらるる者は、天理を亡ぼして、人欲を窮むる者なり」とあり、これはのちの朱子学に引き継がれていきます。天理と人欲を相反する概念として扱っています。以上は、吉川幸次郎先生の解説です。
 『論語』「顔淵篇」の、「顔淵仁を問う。子曰わく、『己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。……」は有名なフレーズですが、あまりに禁欲的だとの批判もあるようです。アドラー心理学の「自己執着」と「共同体感覚」との対比に似ています。なお、『老子』では、逆説的に、「柔が剛に勝つ」ことになっています。
 「之を歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。之を廃(はい)せんと欲すれば、必ず固く之を興(おこ)す。之を奪わんと欲すれば、必ず固く之れに与う。是(これ)を微明(びめい)と謂(い)う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。魚は淵(ふち)より脱(のが)るべからず。国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。
 縮めてやろうと思うときには、しばらく羽をのばさせておくに限る。弱くしておこうお思うときには、しばらく威張らせておくに限る。廃(や)めにしてやろうと思うときには、しばらく勢いづけておくに限る。取り上げようと思うときには、しばらく与えておくに限る。これを底知れぬ英知と言う。すべて柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚が淵から抜け出てはならぬように、治国に利器は人に示してはならない。以上は、福永光司先生の解説によります。(中国古典選10『老子 上』、朝日新聞社)
 「権は見(しめ)すを欲せず……虚にして之を待つ」という『韓非子』の主張に近いそうです。「淵深く潜む魚のように治国の利器を秘匿して、他人に手の内を見せてはならぬ」という主張は、アドラー心理学への反撥を避けるために、われわれがとっている“隠れアドレリアン”の立場と似ているようで、参考になります。

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