論語でジャーナル’25
12,子貢曰く、我、人の諸(これ)を我に加えんことを欲せざるは、吾もまた諸を人に加うることなからんと欲す。子曰く、賜よ、爾(なんじ)の及ぶ所に非ざるなり。
子貢が言った。「私は、他人が自分にしかけてほしくないことは、私も他人にしかけないようにしたい」。先生は言われた。「賜(子貢)よ、お前にできることではない」。
※浩→頭脳明晰な子貢は、理屈として孔子の説く「忠恕」の徳を深く理解していたので、孔子に向かって「自分がしてほしくないことは、他人にもしないようにしたいものです」と語った。孔子は子貢の「忠恕」の理解が十分に正しいことを認めたが、徳というものは理解するよりも実践することのほうが遥かに遠く難しいことを理論優位の子貢に教えたかったのです。そこで、孔子は「他人を自分と同等に敬う忠恕の徳の実践は、お前に簡単にできることではないぞ」と注意を促しました。
「衛霊公篇」に有名なフレーズがあります。「子貢問うて曰く、一言にしてもって身を終るまで之を行うべきものありや。子曰く、それ恕か。己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」と。ここと関連づけて読めば、上の解釈でよく納得できますが、吉川幸次郎先生はこれとは違う古注の解釈を採用されました。「加」を「くわえる」と読まないで「しのぐ」と読んでいます。これならば、物質的・精神的な暴力、ないしは圧力を人に加えるという意味になるそうです。この解釈に従えば、「私は、人が私に暴力を加えることを欲しない。それとともに、私も人に暴力を加えることを欲しない」と子貢が言ったことになって、ずいぶん意味が違います。人からしてほしくないことは自分も人にしないというのは、『聖書』では「何ごとも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7-12)となっていて対照的です。東洋と西洋の考え方の差があります。
アドラー心理学では、自分の「私的感覚」と他の人の「私的感覚」は違うので、自分が望むことをはたして他者が同じように望んでいるか疑問です。そこで、自分の考えでいきなり行為を起こさないで、まず「してほしいかどうか」確認します。昔、野田先生から聞いたことがあります。海で溺れている人を見つけた漁師さんが、いきなりその溺れている人を助けないで、「助けてほしいか?」と聞いて、「助けて」と答えたから助けたそうです。
相談に関しては、「ニードのないところにカウンセリングなし」という原則があります。ニードの有無の確認なしにいきなり手助けをするのは「お節介」です、英語には便利な表現がありますね。May I help you?と。最近の日本語で不思議に思うは、例えば、「もう帰ってもらっていいですか?」とか「それ、やめてもらっていいですか?」という言い方です。これは、「もうお帰りいただけませんか?」とか「やめていただけませんか?」と言うほうが自然に感じます。自分の行為について「~してもいいですか?」とは言いますが、他人に促すのに「~してもらっていいですか?」は何か変です。