論語でジャーナル’25
14,子路、聞くこと有りて、未だこれを行う能わず。唯(こ)れ聞く有るを恐る。
(勇敢な人物であった)子路は、先生から何か(教訓)を聞くと、必ずそれを実行に移そうとした。だから、一つの教えを聞いて、それを実行に移しえぬ間は、次の教えを聞くことをひとえに恐がった。
※浩→儒学では「正しい道(やり方)」を言葉で考えるよりも実際に実践しているか否かが重視されるので、子路は孔子から「このようにするのが良い」と教えられたときに、それを実際に実践できないことを強く恥じたのです。で、以前、先生から教えられた仁の徳を実践できていないのに、さらに先生から新しい教訓を教えられてもそれを実際の行動に移せないのではないかと恐れました。実践を優先し行動で正しさを証明するというのが儒学の基本的なあり方です。孔子が子路を大好きだったのは、こういう美点があるからだと、貝塚茂樹先生。
アドラー心理学も「実践的」です。ただ、「完璧な実行」は不可能ですから、「不完全を受け入れる勇気を持て」と言われています。子路ほど厳格でなくても許されているようです。そもそも理想は地平線のようで、追いかけてたどり着いたと思っても、そのときまた地平線は遙か彼方に見えます。ゴールにたどり着くことより、そちらに向かって一歩一歩前進しているプロセスが大事だということです。
「徒然草」第四十九段に次のようにあります。
老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたのあやまれる事は知らるなれ。あやまりといふは、他の事にあらず、速かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。
現代語訳:年老いてから、はじめて仏道の修行をしようなどと、後回しにすべきではない。古い墓の多くは、年若くして亡くなった人のものである。予期せぬときに重い病気を患い、あっと言う間にこの世から去るときになって、はじめて自分の過去が誤っていたこと理解すると言われている。その誤りというのは、他のことではない。先に行うべきことを後回しにして、あとで行うべきことを先に行ったりしているので、一生を誤って過ごしてきてしまったことを後悔してしまうのである。実際、そのときに後悔しても、何の意味もない。
久しぶりに「徒然草」を読み直しました。