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スレッドNo.441

論語でジャーナル’25

23,子曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)、旧悪を念(おも)わず。怨み是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり。

 先生が言われた。「(周の殷に対する放伐に反対した伝説の忠臣である)伯夷・叔斉は、(不忠不義を許さぬ清廉な人柄だったが)古い悪事をいつまでも気にかけなかった。だから、人から怨まれることがほとんどなかった」。

※浩→伯夷・叔斉は、伯夷が兄で叔斉が弟で、孤竹という国の君主の子どもでしたが、父の死後、お互いに位を譲り合って、跡目を継がなかったそうです。時はちょうど、紀元前1100年ごろの殷周革命で、周の武王が殷の紂王を武力で倒そうとしているときでした。酒池肉林の悪政に耽る紂王のもとを去って、新興国の周の武王に従っていましたが、暴力的な放伐ではなく平和的な禅譲(ぜんじょう)によって天子の位を引き継ぐのが天の道理だと考えていた二人は、周が武力で天下に号令をかけると、周の粟(ぞく)を食べることを拒否して、首陽山(しゅようざん)に隠棲して、そこで遂に餓死してしまったそうです。そのため、最も高潔な人物としてその後長く尊敬され続けます。
 こういう二人ですから、人の過去の悪事を憎みはしましたが、いつまでも記憶にとどめることはなかったそうで、そのため人から怨みを受けることも稀であったということです。
 「怨み」に対する態度として想い出すのは、『法句経 ダンマパダ』です。これは現存教典中最古のものの一つで、この言葉はブッダの直説に近いと言われます。
 ブッダの教団で、二人の修行僧が些細なことで喧嘩別れしたことがありました。それがきっかけで修行僧や在家信者たちが、二派に分かれて争ったので、ブッダも困りました。その問題の二人について、食事の際にも離れて座るようにも注意したのですが、効果がありません。そこで、次のような話をして、教訓を与えました。
 昔、長寿王という名の王がいた。忍耐強い上、柔和な心の王だった。ところが隣国の王が、自分の国を襲撃しようとしているのを知り、国を脱出した。王は隠れて難を逃れようとしたが、密告されて捕らえられた。そしてまさに処刑されようとしたとき、王はひそかに近づいてきたわが子にこう言い残した。「このことによって怨みを起こしてはいけない。怨みは怨みを捨ててこそやむものだ」と。しかし、こんな懇切なブッダの教示にも修行僧たちの争いは止まなかった。そこでブッダは、「あの人は私を罵った、私を打った、私を打ち負かした、などと思っていると怨みは消えるものではない。そのような思いを捨てた人には怨みはついに消える」と述べた上で「争いはたくさんだ」と言い残し、その場を去った。ブッダはそのまま森の中にこもり、三か月の間誰とも会おうとしなかった。さすがに頑固な修行僧たちもこれにはまいって、ようやく自分たちの非を悟ったという。争いは常に些細なことから起こるものである。しかし、その些細な怨みをも持ち続けることから大きな血なまぐさい争いが持ちあがる。プーチン大統領は「法句経」を知っているんでしょうかねえ。
 第二次大戦後、スリランカがこの「怨みをすててこそやむ」を引用して、日本への賠償を求めなかったことはあまりにも有名です。「千年でも怨み続ける」ことを国是としているような国もありますが、「不適切な行動には注目しないで適切な行動に注目する」ことでしか関係の改善はありえないのに。

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