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スレッドNo.447

論語でジャーナル’25

26,顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍(じ)す。子曰く、盍(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志を言わざるや。子路曰く、願わくは車馬衣裘(いきゅう)を、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ることなく、労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んじられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん。

 顔淵と季路とがお側に仕えていた。先生は言われた。「それぞれお前たちの志(こころざし)を話してごらん」。子路は言った。「車や馬や着物や毛皮の外套(がいとう)を友人と一緒に使って、それが痛んだとしても、気にしないようにしたいものです」。顔淵は言った。「善い行いを自慢せず、つらいことを人に押し付けないようにしたいものです」。子路が言った。「できるならば、どうか先生のお志(こころざし)をお聞かせください」。先生は答えられた。「老人には安心され、友だちには信用され、若者には慕われるようになりたいものだね」。

※浩→孔子の高弟である顔淵すなわち顔回と、季路すなわち子路の志望と、孔子の志望が語られた章です。まっさきに気の早い子路が答えました。彼の理想は、私欲を廃して自分の所有物にこだわらない鷹揚(おうよう:鷹が大空を飛ぶようにゆったりとして威厳があること)な気概というか、激烈な友情ということでしょうか。今ふうに言えば、自分の高級車やオーディオ器具を友だちと共有し、友だちと一緒に使って、潰れるまで使ってもくよくよしないということでしょうか、あるいは、友だちの車馬衣裘を自分がボロボロになるまで使っても気がおけない「交友の至り」を言っているのでしょうか。両説あるようです。
 一方、老成な顔淵の理想は、善行をしてもそれを自分の手柄とし思うことなく、難しいことを人に押しつけない(あるいは、自分の骨折りを大袈裟に言わない)ことです。
 そして子路から先生の志望は何かを聞かれて、孔子は「老人には安心してよりかかられ、朋友からは信頼され、若者からは慕い寄られる。そういうふうにありたい」と答えています。
 私は年齢的にはすでにこのときの孔子を超えていますから、私よりも高齢の人とのつきあいはほとんどありません。同年齢かあるいはほとんど私よりも若い人とのおつきあいばかりです。したがって、「私より高齢の人から安心され信頼され慕いよられる」ようには、除外できます。でも朋友(これも少なくなりましたが)からは信頼され、若者からは慕い寄られる」、そういう存在にはなりたいです。「進撃の巨人」ならぬ「勇気づけの達人」でありたいですが、未熟者で現実はなかなか思いどおりにはなりません。教科書的な言葉面の「勇気づけ」でなく、事態に即してタイムリーかつ柔軟な勇気づけができればいいです。野田先生は、「勇気づけは生もの」とおっしゃっていました。しかも、「勇気づけられたかどうかは相手が判断するものだ」とも。ですから、正確に言えば「勇気づけられ」です。こちらは勇気づけたつもりでも、相手は著しく勇気をくじかれていることもありえます。ご用心、ご用心。

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