論語でジャーナル’25
7,子曰く、回や、その心、三月(さんがつ)仁に違(たが)わず。その余は日月(にちげつ)に至るのみ。
先生が言われた。「顔回(顔淵)は道徳の中心である仁から三か月間、心を遠ざけずにいることができる。その他の弟子たちは、一日間あるいは一か月間ぐらい仁の境地に到達できるにすぎない」。
※浩→短い一節ですが、解釈はずいぶん違うようです。吉川先生は、古注を採用されています。顔回は孔子の最愛の弟子ですから、彼への愛情がこの一節にも溢れています。
貝塚先生は、いかにも顔回に語りかけている孔子の様子がうかがえるという解釈です。 ↓
子曰く、回や、その心、三月(さんがつ)仁に違(たが)わざれ。その余は日月(にちげつ)に至らんのみ。
先生が言われた。「回よ、ただ三か月の間でよいから、心が仁徳に背かないようにしなさい。三か月を過ぎてしまえば、仁以外の残りの徳も、自然な日月の流れの中で身についていくだろう」。
吉川先生はこれは定説とはしがたいと述べられています。
顔回は、孔子の最愛の弟子で、名は回、字(あざな)は子淵(しえん)です。顔淵とも言います。孔子門下第一の賢者で、孔子は仁を最高の徳としていて、時人を評して仁者と認めたことはないですが、顔回についてはここで述べられているように、「回のみは三か月も仁の心を継続しうる」と唯一仁者と認めて、また弟子中で好学と言えるのは回のみであるとも言っています。貴権に仕えることもなく、その生涯は至って貧しかったですが、それを意に介せず道を楽しみました。孔子より30歳(37歳説もあり)年少と言われますが、孔子より先に亡くなりました。孔子は「ああ天、予(われ)を喪(ほろ)ぼす」と慟哭(どうこく)しました。顔回は孔子門下で隠者の風があり、道家の書にも賢人として取り上げられているそうです。
「仁」とアドラー心理学の「共同体感覚」を重ねたくなりますが、安易に「そうそう」と言いにくいことに気づきました。人間の生き方ですからある程度の類似点はあるでしょう。しかしながら、「仁」は「真心とか思いやり」とか個人の「内的構え」を言っているのに対して、「共同体感覚」は「共同体」という人間集団を生きる個人としての「態度」「構え」を言っているようです。アドラーのお弟子の誰かが、「共同体感覚を人に教えるには?」と質問したのに対してアドラーの答えは「Live it.」でした。「あなたがそれを生きてみせなさい」。顔回はお師匠様より先に他界しましたが、わがお師匠様は、生徒の私たちよりも先立たれました。とても残念です。