論語でジャーナル’25
11,子曰く、賢なるかな回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や。
先生が言われた。「顔回は何と賢明な人物であろうか。竹作りの弁当箱一杯の食事と瓢(ひさご)の水筒一杯の水で、寂れた路地の奥に住んでいる。普通の人はその憂鬱に耐えられないだろうが、顔回は質素な生活の楽しみを忘れることがない。回は、何と立派な人物であろうか。
※浩→最愛の弟子であった顔回の質素な生活と有徳なふるまいを絶賛しています。顔回は、一般の人だと退屈や憂鬱に押しつぶされてしまうであろうような状況でも、学問と徳行の日々を十分に楽しむことができて、顔回ほどに賢明で清廉な人物はそうそういるものではないと、ここまで師に愛される顔回はどんなに魅力的な(知性と徳性においてでしょうが)人物だったのでしょうか?素晴らしかったに違いありません。吉川幸次郎先生の解説では「賢」を「かしこい」と訳さないで「えらい」という褒め言葉に訳されていましたが、アドラー心理学では「褒めるのは勇気くじき」となりますが、時代も場所も違いますから、そんなに細かいことにはこだわらないで、「美しい師弟関係」として素直に憧れます。たびたび申しあげますが、私はかつて恩師・野田俊作先生から「カウンセラー養成講座の西の優等生だ(東は東京の伊東毅さん)」と言われたことがあり、また、資格修得当初の自分の事例の1つを、養成講座参加者の事前必読文献として指定していただいたこともあります。現場で自分が担当するケースを毎週金曜日夜、大阪のアドラーギルドで開かれる事例検討会に出すと、そのたびに丁寧なアドバイスをいただき、それをもとにそれ以後の面接を行うと、ほとんどどのケースもすんなりと終結しました。これは、それほど師匠から愛されていたともとれますし、あるいはこれくらい丁寧に教えておかないと間違いをしでかしそうだと、劣等生への特別配慮だったのかもしれません。どちらでもいいです。「受けたご恩を倍返し」で、現在ともに学ぶ若者たちに自分がいただいた知的財産を彼らにしっかりと伝授し続けていきます。