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スレッドNo.486

論語でジャーナル’25

17,子曰く、誰か能(よ)く出づるに戸(こ)に由(よ)らざらん。何ぞ斯(こ)の道に由ることなきや。

 誰だって、室から堂へ出るときは、戸を押し開け、そこを経由して出ていく。それは決まったことである。人間の「道」も同じで、誰も経由しなければならないのが「人道」である。それなのになぜ人々は、この人道に頼ろうとしないのであろうか。

※浩→古代中国の家は、南に向いた横に長い矩形で、南半分が「堂(表座敷)」、北半分の西側が「室(寝室)」、東側が「房(居間)」でした。堂と室の境に「扉」があったのです。
 家の中の道ですから「家道」と仮に名づけておきます。そこは誰でも通るのに、人の道「人道」には人々は頼ろうとしない。政治的に対立していても、「人道的」立場から食料などを援助することはよくありました。現実は、どこかの国の非道に対しては対立する諸国による「制裁」とそれへの「応報」の連鎖で、国際緊張は一向に改善されません。現在、紛争のある地域ではいったいいつになれば平和が戻って、人々が安全に幸せに暮らせるようになるのでしょうか?核兵器保有国の動向によっては、いつ地球が核汚染されるかわかりません。もっと身近なところでは、学校では「いじめ」が、家庭では児童虐待が、高齢者には特殊詐欺の被害が……と、今の世の中は危険でいっぱいです。乱世です。「治にいて乱を忘れず」は、自然災害に備えることには適用できますが、人的災害・紛争・戦争にはどう対処すればいいのでしょうか?ロシアとウクライナは先祖は同じなのに。中国と台湾は同じ漢民族です。南北朝鮮も同じです。それなのにどうして和解できないのでしょうか?そういえば、血のつながっている者同士の諍いや争い、家族や血縁者が互いに対立して争うことを「骨肉の争い」「骨肉相食む」と言われます。
 孔子や孟子では「仁」や「義」、アドラー心理学では「共同体感覚」の育成です。共同体感覚については、たびたび触れていますから、ここでは、『孟子』の「仁義の徳」について引用してみます。
 孟子曰く、仁は人の心なり。義は人の路(みち)なり。その路を捨てて由らず(よらず)、その心を放ちて(はなちて)求むることを知らず、哀しいかな。人は鶏犬の放つことあらば、これをさがし求むることを知るも、心を放つことあるに求むることを知らず。学問の道は他なし、その放心を求むるのみ。
(仁は本心にかかわる徳、義はその心を実現していく手段にかかわる徳だ。真の人としての生活は、片時もこれから離れることはできないはずであるのに、人々はその本心を放ち失いながら気がつかない。鶏や犬が逃げれば大騒ぎをして探すのに、肝心の心がなくなっているのにおかまいなしである。道徳修養の方法、それは他でもない。自らこの放心つまり糸の切れた風船のように離れ去っている本心を取り返そうと勉めるだけのことだ。)
(←『中国古典選 孟子(下)』朝日新聞社、金谷治先生の訳から)

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