論語でジャーナル’25
20,子曰く、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。
先生が言われた。「物事を理解する人は、これを愛好する人にかなわない。愛好する人は、楽しんで一体となっている人にはかなわない」
※浩→学問は「愛知」であり、対象と一体になることによって最高の境地に達する。「愛知」はギリシャ語で“フィロソフィア”。フィロが「愛する」で、ソフィアが「知恵」です。英語のphilosophy(哲学)の語源です。儒家の「格物致知」は到達点が「平天下」ですから政治哲学です。プラトンも「哲人政治」の理想を唱えていました。
ここでの「知って愛して楽しむ」は個人の様子を言っています。不等式で書くと、「知る<好む<楽しむ」です。
私がアドラー心理学のカウンセラーになった当初、毎週金曜日の夜は大阪のアドラーギルドへ、自分のケースを持っていって、アドバイスを受けていました。そのころは、猛烈な知識欲がありカウンセリング実践欲の塊でした。当時、パセージ・リーダーの高橋さと子さんから、「大森さんは楽しんで実践していらっしゃる」などと、嬉しいお言葉をいただきました。野田先生は、「どうしても避けられない運命には、2つの選択肢がある。1つはそれをイヤイヤ受け入れること。もう1つはそれを楽しみながら受け入れること。これは自分で選べます」とおっしゃいました。そうだ、Enjoy!なのです。
道家では老子は、文明の虚飾・技巧を捨てて無為自然の古代の道に帰れと説くので、復古主義・現実逃避の生き方になります。荘子は、現実を否定して逃避するのではなく、現実の真っ只中に身を置いて、世俗と交わりながら、しかも何ものにも束縛されない自由無碍な生活を生きることこそ、真の超越者の生活であると主張しました。このように生きるために必要な哲学は「万物斉同」の哲学です。私は、人生のピンチのとき、この哲学で救われました。アドラー心理学を学ぶようになって、道家思想は土着思想だと教えられて、長らく棚上げしていました。最近はたとえ土着思想であるにしても、具体的な「処世術」としては実際に役立つことが多いので、その価値を見直しています。心理学でも、理論の差異は譲れませんが、技法はお互いに貸し借りしています。
アドラー心理学の学び方は、まず書物や講演で見て聞いて、頭で知って、それからそれを実践し、体が体得し、さらには仲間との交流で、軌道修正していくことだと教わりました。「知ってわかって実践する」という3段階です。カウンセラー養成講座でカウンセラー資格試験に落第する人は、「頭で知ってはいてもわかっていない」からだと、野田先生は常々おっしゃっていました。
人生では、世界について(人間についても)よく知って、よくわかって、さらにはそれらを楽しむ心境に達すれば最高です。それには「予測と制御」の力が必要です。自分の現在の行動の結末を予測できて、望ましくない結果が起こりそうだとわかれば、そうならないための適切な行動を今選べばいいわけです。この原理を知らないために、未来に不安を抱くクライエントさんにたびたび遭遇します。そういう人は、ほとんど「悪いあの人、かわいそうな私」をやっていて、「こんなにも私はつらい」と愚痴をいっぱい言いながら、現実には自分で何かしようとはしません。カウンセラーが提案する案についても、ほとんど否定・抵抗されます。神経症的な人のカウンセリングではよくあるそうです。治ったら困るんでしょうね。「憐れな被害者」でなくなるもの。その人たちのやっていることは「劣等コンプレックス」ですから、巻き込まれてうっかり片棒をかつがないように、カウンセラーは敏感でないといけません。ふと、わが家の本棚に、『愛はおそれをサバ折りにする』という変わった題名の本があります。パラパラとめくってみると、凄いフレーズがあちこちに散らばっています。
すべての怖れは「過去」にあり、すべての愛は「いま」にある。
というのに眼が止まりました。うーん、忙しいけど読み直します。