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スレッドNo.504

論語でジャーナル’25

26,宰我、問いて曰く、仁者はこれに告げて井(い)に仁ありと曰うと雖(いえ)ども、それこれに従わんか。子曰く、何すれぞそれ然らんや、君子は逝(ゆ)かしむべきなり。陥らしむべからざるなり。欺くべきなり。罔(し)うべからざるなり。

 宰我がおたずねした。「仁の徳を持つ人は、もし誰かが井戸の中に、(仁ある/誰か)人が落ちている」と言ったなら、そこへ行きますか?」。先生が言われた。「そんな馬鹿なことはない。君子は井戸のところまでは行くだろう。しかし井戸の中まで入って其の人を探すことはしないであろう(善意に依って動こうとするけれども思慮分別を失って過度の行為はしない)」。道理にかなったことで君子を騙すことはできる。常識にはずれたことをもちかけても彼を欺瞞することはできない」。

※浩→宰我は、才子で雄弁家だったので、孔子に難問を持ちかけて、困らせようとしました。仁者とは人を愛するものだと言うが、もし「井戸に人が落ちている」と嘘をつかれたら、その仁者はどうするかと聞いてみた。「人が井戸に落ちたという知らせを受けて、そんなことがあるものかと知らん顔をしていないで、井戸のそばまで走って行く。それでなければ仁者でないが、井戸の中をよく調べてもみないで、いきなり飛びこむことはしないよ、と孔子は答えた。この孔子の答えを「ご名答」と解説にありました。宰我はこういう意地悪な質問をして、孔子に嫌われていたそうです。
 井戸に乳児が落ちそうなとき云々と言えば、孟子の「四端の心」の“惻隠”を思い出します。次の一節はあまりにも有名です。
 ……人にみな人に忍びざるの心ありと謂う所以(ゆゑん)のものは、今人乍(にわ)かに孺子(じゅし)の井(せい)に入らんとするを見れば、みな怵惕(じゅつてき)惻隠(そくいん)の心あればなり。交わりを孺子の父母に内(むす)ばんとするためにもあらず。誉れを郷党朋友に要(もと)めんとするためにもあらず。その声(きこえ)を悪(はばかり)りて然するにもあらざるなり。
 これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪(しゅうお)の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人のこの四端あるは、猶(な)ほその四体あるがごときなり。
 現代語訳→今や乳児が井戸に落ち込もうとするとき、その咄嗟の場合を見れば、誰しも驚愕し痛ましいと思う心、怵惕惻隠の心に取りつかれて、思わずハッとしてそのほうに駆け出すでもあろう。それは乳児の父母と親交を結ぼうとするからでもなく、郷里の友人の間で名誉を得ようとするからでもなく、また助けなければ悪い噂が立つのを恐れたためでもない。この本能的な内からの発作を考えれば、人間の本性として忍びざるの心のあることがわかる。それが起こらないものは人でなしではないか。

 乳児の井戸に落ちる譬えから推し及ぼして、憐れに痛ましく思う「惻隠の心」、悪しきことを恥じ憎む「羞悪の心」、へりくだり人をすすめる「辞譲の心」、よしあしを見分ける「是非の心」の四つを人間本有のものとし、それぞれ「仁義礼智」となる「芽生え(端)」だと、力強く主張します。
 アドラー心理学の世界にも、野田先生に変な質問をする人がいました。野田先生の回答は鮮やかそのものでした。こんなのがありました。
Q 結婚して1年になる息子、交通事故による障害者です。嫁は健常者です。よく夫婦喧嘩をします。親としての声のかけ方を教えてください。
A 結婚したらもう子どもじゃないから、忘れてください。

 簡にして明です。質問者には肩すかしだったでしょう。でも野田先生も、いつもこういう素っ気ない回答をされるとは限りません。ほとんどの場合、丁寧に回答されます。

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