論語でジャーナル’25
30,子貢曰く、如(も)し能く(よく)博く民に施して能く衆を済(すく)わば如何(いかん)、仁と謂うべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜もそれ猶(な)おこれを病めり。夫(そ)れ仁者は己(おのれ)立たんと欲して人を立たしめ、己達せんと欲して人を達せしむ。能く近く譬えをとる。仁の方(みち)と謂うべきのみ。
子貢がおたずねした。「もし国民に広く恩恵を与え、多くの人々を救済することができるならば、いかがでしょう。仁と言ってよいでありましょうか?」。先生が答えられた。「どうして仁くらいにとどまるだろうか。最高の道徳者「聖」にしてはじめてできることである。いや聖人にさえ、無造作にできることではない。古代の聖人・堯と舜さえも、それらを悩みの種、難しいこととしたであろう。およそ仁者は、自分が立ちたければ、まず他人を立たせ、自分が達したいと思えば、他人を達せさせる。何事をも、身近な自分の身の上について事柄を考える。あることを他人にしようとする場合には、それが自らの身の上に加えられた場合には、どうであろうかと、近い自分の身の上について考える。これが仁を実践する方法である。
※浩→子貢が政治家としての立場から人民の福祉を増進し、多くの民を救うのは、仁の徳を実現する政策ではないかと質問しました。これに対して孔子は、古代の理想の君主であり聖人と言われる堯・舜ですら、容易に実現できなかった理想だと、正面から論ずるのを避けたのです。春秋末期の列国は、戦争・内乱が相次いで起こり、豪族が農地を兼併し大土地所有が進行していました。人民の福祉の向上、民の救済にはとても手が回らなかったのです。ですから子貢の理想を空想だと退けました。孔子はもっと現実に立ち、自分の周囲に仁を及ぼし、それから次第に拡大するのが実際的だと考えました。人間への愛は、広漠な人類愛という形から出発するよりも、そうした理想を持ちながらも、実践は近くから始めなければならぬという、儒家の考え方が示されています。
「能く博く民に施して能く衆を済わば……」というのは高邁な理想で、「仁」を超えた「聖」の領域で、古代の聖人王でさえ実現は困難だったと指摘した上で、具体的に仁の実践は、「まず人を立たせ、人に達成させ」と説きます。これはアドラー心理学の「共同体感覚」と「自己執着」の対比を彷彿させます。ちなみに、アドラー心理学は「しあわせの心理学」だと言われます。
「1,しあわせになろう」
「2,そのためには人をしあわせにしよう」
「1と2は同じことである」
「人をしあわせにする」といえば、『クリスマス・キャロル』を思い出します。主人公は、スクルージという初老の商人で、冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴、人間の心の暖かみや愛情などとはまったく無縁の日々を送っている人物で、ロンドンの下町近くに事務所を構え、薄給で書記を雇い、血も涙もない、強欲で、金儲け一筋の商売を続け、隣人からも、取引相手の商人たちからも蛇蝎のごとく嫌われている。共同経営者・ジェイコブ・マーレイの葬儀に、彼へのお布施を渋り、冥銭を持ち去るほどであった。
明日はクリスマスという夜、事務所を閉めて自宅に戻ったスクルージは、7年前に亡くなったマーレイ老人の亡霊の訪問を受ける。マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、生前の罪に比例して増えた鎖にまみれた自分自身を例としてスクルージに諭し、スクルージが自分以上に悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、3人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝える。
「第一の幽霊」(過去)、「第二の幽霊」(現在)、そして「第三の幽霊」(未来)である。
第一の幽霊(過去)は、スクルージが忘れきっていた少年時代に彼を引き戻し、孤独の中で、しかし夢を持っていた時代を目の当たりに見せる、また青年時代のスクルージの姿も見せ、金銭欲と物欲の塊となる以前のまだ素朴な心を持っていた過去の姿、そしてかつての恋人との出会いからすれ違いによる破局を示す。
第二の幽霊(現在)はスクルージをロンドンのさまざまな場所に導き、貧しい中、しかし明るい家庭を築いて、ささやかな愛で結ばれたクラチット家の家族の情景、楽しい夕食会をしている甥フレッドの姿を見せる。クラチットの末子は脚が悪く病がちで、長くは生きられない。
第二の幽霊と共に世界中を飛び回って見聞を広めたスクルージは、疲れ切って眠る。そして再度目覚めると、そこには不気味な第三の幽霊(未来)がスクルージを待っている。スクルージは、評判の非常に悪い男が死んだという話を聞くが、未来のクリスマスには自分の姿がない。評判の悪い男のシーツに包まれた無惨な死体や、その男の衣服まではぎとる日雇い女。また、盗品専門に買い取りを行う古物商の老人や、その家で、盗んできた品物を売りに老人と交渉する3人の男女の浅ましい様などを見る。また、クラチットの末子ティム少年が、両親の希望も空しく世を去ったことを知る。そして草むし荒れ果てた墓場で、見捨てられた墓碑に銘として記されていた自らの名をスクルージは読む。
スクルージは激しい衝撃に襲われるが、クリスマスの始まる夜明けと共に、悪夢のような未来が、まだ変えることができる可能性があることを知る。彼はマーレイと3人の幽霊たちに感謝と改心の誓いをし、クラチット家にご馳走を贈り、再会した紳士たちに寄付を申し出、フレッドの夕食会に出向く。そしてその翌日、クラチットの雇用を見直すとともに彼の家族への援助を決意する。
のちにスクルージは、病気も治ったティムの第二の父とも呼べる程の存在となり、「ロンドンで一番クリスマスの楽しみ方を知っている人」と言われるようになるのだった。
このお話はハッピーエンドですが、もう1つ思い出した「幸福な王子」は、ラストが悲惨に思えます。(宝石で飾られた)王子(の像)に頼まれてあちこちへ宝石を運んで、ついに目ざすエジプトへ帰れず、力尽きて死んだツバメはどうなるのさ!「フランダースの犬」のネロと同じで、神様が天国へ招きますから、やっぱりハッピーエンドなんでしょうか。納得がいきません。やはりこの世でハッピーになってほしいと願います。
このお話は大好きなので、長いのを引用します。
昔、ある町に王子の像が立っていました。身体は金箔に覆われ、両目の瞳はサファイヤ、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、心臓は鉛でつくられた美しい像です。そこへエジプトへ渡る最中の一羽のツバメが、寝床を探して像のところまでやって来ました。ツバメが王子の像の足元で寝ようとすると、頭上から大粒の涙が降って来ます。見ると金箔の王子の像が泣いていました。王子の像は、その視界に入ってくる貧しい人たちの生活ぶりを見て、悲しんでいたのでした。そして王子の像はツバメに「貧しい人たちに自分の身体に付いている宝石を分け与えてくれ」と頼みます。ツバメは願いを聞き入れ、病気に苦しむ子供のいる家族にルビーを届けます。
願いを聞き遂げ、出発しようとしていたツバメでしたが、その翌日、王子の像は「まだ飢えに苦しんでいる人たちがいる、もう1日だけ待っておくれ」願います。早く出立したかったツバメですが、王子の切なる願いを聞き入れ、目のサファイアを貧しい劇作家に配ります。いよいよ出立しないと間に合わなくなったツバメは、ついに王子の像に別れを告げようとします。しかし王子の像の嘆きは収まりません。王子の像はまた「あと1日待っておくれ」と願い、もう1つの瞳のサファイアをマッチ売りの少女に渡してくれるよう頼むのでした。ツバメは「そんなことをしたら目が見えなくなる」と心配しましたが、「貧しい人が救われるなら」と王子の像は考えを変えません。その優しい心に触れたツバメは、エジプトへ渡ることを諦め、最後まで王子の像の願いを聞き遂げる決意をしました。ツバメは視力を失った王子の像のため、町の様子を彼に伝えるようになりました。
王子の像は自分の身体の金箔を配るよう願いましたが、配れば配るほど王子の像はどんどん見すぼらしい姿に変わり果てていきました。そして王子の像からかつての綺羅びやかな様子が消えた頃、町は冬を迎えます。寒さに耐えられないツバメは身体がすっかり弱ってしまっていました。死期を悟ったツバメは、最期に王子の願いが聞けて幸せだったことを告げ、最後の力で飛び上がり王子の像にキスをすると、ついに力尽きてしまいました。それを聞いた王子の像は、ツバメが死んでしまったことに大きなショックを受け、ついに鉛の心臓が割れてしまいました。
2人が動かなくなった翌朝、町の人々は「いつの間にか美しくなくなってしまった。溶かしてしまう」と、王子の像を溶鉱炉にかけてしまいました。しかし鉛の心臓だけは溶けなかったので、ツバメの死体と一緒にゴミ置き場に捨てられてしまいました。
そのころ、神様が天使と一緒にこの町へやって来ました。神様が天使に「この町で一番美しいものを持って来なさい」と命じました。天使は、割れた鉛の心臓と、ツバメの屍を持ってきました。神様は「確かに、これぞこの町で一番美しいものだ。2人は天国に連れていってやろう」。
やっぱり、「フランダースの犬」と似たラストです。(「雍也篇」完)