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スレッドNo.64

老子でジャーナル

☆「老子でジャーナル」が「第一掲示板」からこちらへ引っ越ししました。

さらに第1章のつづき
 『老子』は中国において否定的な警告を発した文明批判の著作です。ところで、あるものを否定するためには否定されるものがそれに先行しないといけません。「アンチテーゼ」に対する「テーゼ」です。老子が否定したのは主として孔子学派の説く「道」と「名」とその価値体系全体でした。孔子学派の「道」は君子の道で、「名」は君子の名でした。君子とは為政者(支配階級)と基軸として構想された人間の理念型であり、支配階級を中心とする価値体系の担い手です。彼らは為政者の居住する都市を生活の根拠地とし、都市文明の有力な推進者で、その享受者でした。彼らは己れたちを中心とする現実社会の秩序を構成し、その膣区を実現し維持するための道徳を根拠づけます。君・臣・民の階級秩序がそれであり、人倫の道、礼楽の教えがそれです。それらの教えを書き記した経典が編纂され、それらの経典を学ぶことが必須の教養として要請されます。その教養を十分身につけた者が知者であり賢者であり、賢知が人間にとっての第一義的な価値として設定される。人々は賢知の価値を目ざしてその取得に日夜骨身を削り、知者・賢者を求めて故郷を離れ各地に遊学します。官吏としての栄達が彼らの窮乏を勇気づけ、美衣美食に飾られた富貴の生活ときらびやかな都会の奢侈が彼らの困苦を激励する。競争心と嫉視が彼らの野心の中に渦巻き、偽善と虚飾、狡知と姦偽が彼らの中で悪質化する。
 老子は、それが人間の真に幸福なあり方であろうかと反問する。また、彼らが善しとし快楽とするものが果たして人間にとっての本当の価値であろうかと批判する。彼らは賢知という価値を尺度として人間のさまざまなあり方を切っていき、その尺度に合わぬものをすべて切り捨てる。親子君臣の関係がそれによって秩序づけられ、仁義礼楽の教えがそれによって規範づけられる。彼らの価値体系に規格づけられる者は賢者とされ、規格づけられない者は愚者とされる。もしくは彼らの生活様式を身につけた者は「文」─洗練された教養人と呼ばれ、それを身につけない者は「野」─泥臭い田舎者と呼ばれる。彼らの価値体系もまた一つの価値体系ではあろう。しかしそれは要するに一つの価値体系であって、恒常不変の絶対的なものではありえない。その限界性と人為性を忘れているところに彼らの思い上がりがあり、その根源にあるものを無視するところに彼らの偏見と誤謬があると、老子は批判します。さらに続きます。人為的なものはいつかは行き詰まり崩れ去る。どのように整備された政治秩序も、どのように華やかな文明文化も、それが人間によって作られたものである限り、いつかは混乱して瓦解する運命を免れない。しかもその可能性はしばしば歴史の中で突如として現実化します。人間の軽量や予測を許さないのが、運命と言うことの本質ですからです。人間の社会にとって滅びと崩れが必然であると諦観され、しかも人間がなおその中で崩れない生き方をしようすれば、一切の人間的な作為が崩れ去ってしまったところに、もしくは崩れ去ってしまうと危惧されるところから、人間のあり方や生き方を考えるほかない。一切の人間的作為が崩れ去ったところに、なお残るものは自然であり、自然に腰を据えた生き方だけが人間に究極的な安らかさを保証する。
 「根源」としての「道」を説く老子の思想は土着思想であると野田先生から教わって以来、アドラー心理学に専念したいがために、長らく遠ざかっていました。このことについての野田先生のお考えはのちに述べることにします。

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