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スレッドNo.68

老子でジャーナル

老子第3章
 賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしめ、得難(えがた)きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしめ、。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱(みだ)れざらしむ。ここをもって聖人の治は、その心を虚(むな)しくし、その腹を実(み)たし、その志を弱くし、その骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知者をして敢(あ)えてなさざらしむ。無為をなせば、則(すなわ)ち治(おさ)まらざる無し。

 為政者が知者賢人を(必要以上に)尊ばなければ、人民を争わないようにすることができ、珍しい財宝を価値ありとしなければ、人民に盗みをしないようにさせることができ、欲しがるものを見せなければ、人民の心を乱れないようにさせることができる。だから無為自然の道の体得者・聖人が、支配者として政治を行う場合には、人民の心に何の欲念もないようにして、十分に腹力をつけさせるようにさせ、外に向かう心の動きを弱くして、体の骨をしっかりとさせるのである。いつも人民をムチ無欲の素朴で健康な状態に置き、あの知者賢人と呼ばれるさかしら病患者につけ込む隙を与えないようにする。このようにして無為自然の政治を行っていくならば、平和に治まらぬ国とてはないのである。

※浩→この章は、老子の欲望論や文系批判の立場を最も基本的に示している点で注目され、また人間にとっての本当の降伏とは何か、人間の本来的なあり方と言われる文明や文化との関係は如何という問題についても、鋭い思考を言外に含んでいるとされています。
 ここに説かれている聖人の無為自然の政治が、都市の華やかな文明文化と人間の知的能力の偏重、その軽薄な享楽主義と不健康な官能の耽溺を批判しつつ、都会的な奢侈と享楽の風潮に汚染されない、素朴で健康な農村の生活を基盤として構想されたものであることがわかります。都市の知者賢人はみずから生産せず他人の生産に寄食し、彼らの足はしっかりと大地を踏みしめていない。彼らは口を開けば「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる」とうそぶきます。彼らはおのれの独善を尺度として人間の価値づけをし、おのれを頂上に据えた社会の秩序づけを構想します。彼らの自画自賛する賢知は人間の欲望の肥大化を促し、欲望の肥大化はまた人間の知力を凶悪化させます。そして知力が欲望を肥大化し、欲望が知力を凶悪化させる悪循環の中で人間の心は日に日に険悪化し、人間の社会はいよいよ対立と闘争を激化していきます。彼らは文明文化の美名と虚栄心とに自己陶酔して、それが人間をもはや人間でなくさせる危険性、人間の社会を虐げと搾取で血まみれにする凶悪性を内包することに気づかない。大切なのは、人間の安らかな生活であり、必ずしも文明文化の発達ではなかったのです。
 老子は人間の欲望を際限なきままに放置することは、人間に真の幸福をもたらさないばかりか、かえって人間を惨めにし、人間の社会に混乱と無秩序と破滅をもたらすと考えます。ですから、人間が本当に幸福な生き方を持ち、平和な社会を実現するためには、欲望はまったく棄てられるか、もしくはそれに近い状態に保たれることが望ましいです。無欲であるか寡欲であることが人間を幸福にし社会の 平和を実現する根本の原理であると考えます。しかし、人間は生まれてきた限り生きていかなければなりません。生まれてきたことが自然であるならば、死ぬこともまた自然であるように、死の訪れるまで生きていくこともまた自然です。欲望を無限に放置することは危険ですが、それを完全になくすることもまた不可能です。無欲は理想ですが、実際には寡欲を──できるだけ無欲に近い寡欲を説くものだと見なさないといけません。彼が説く「足るを知る」というのは、何ほど火の欲望充足を認めることで、欲望の全面的否定ではありません。老子においては生そのものを否定する厭世思想はなくて、むしろ生を全うすることこそ彼の哲学の基本です。生を全うするために無意志自演の道に従うのであり、無為自然の道に従うために無欲や寡欲、もしくは知足が説かれるのです。
 野田先生は次のように説かれました。↓
 アドラー心理学では、心の要素は、一見矛盾し対立しているように見えても、実は分業し協力して同じ目標を追求していると考えます。人間の欲にはボディとマインドとハートがあるとします。ボディもマインドも心の要素ですから、一見矛盾し対立しているように見えても、実は分業し協力して同じ目標を追求しているはずです。
 その目標とは何かというと、ボディの側から見ると簡単なのですが、生存(=自己保存+種族保存)と所属です。マインドはこの目標の実現に向かいながら、かつ社会と折り合いを付けるために、さまざまの工夫をしています。
 こう考えると、ボディはフロイトが言う「イド」であり、マインドは「エゴ」であり、目標追求とはリビドー・エネルギーのことであることがわかります。
 ボディには個性がありません。どの人のボディも、本能的に生存と所属を追求しているだけです。マインドは、ひとりひとり違っています。その違いをライフスタイルと言います。
 ボディは動物的なものですから、悩むことはしません。欲求不満は持つでしょうが、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならないのです。
 悩みはすべてマインドが作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの目標追求と社会の要求との折り合いを付けようとするのです。その悩み方がひどくなって、現実には目標追求できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。
 例えば、「みんなの仲間でいたい」というのはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」「友だちが離れる」ということに異常なくらい恐怖心を持っているのはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。この場合でも、幻想の中においてではあるが、マインドはボディに協力しています。しかもボディは永久に欲求不満です。
 マインドが悩んでいる時の解決法は2つあります。「俗」アドラー心理学では、より巧妙なマインドを作り出そうとします。「聖」アドラー心理学では、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。でも、「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がします。だから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、ハートの目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。
 禅宗の人が「遍界かつて蔵(かく)さず」と言います。真理は日常にいつも現れ出でている。ただ、人がそれを見ないだけだ。どうして見ないかというと、《マインド》(≒自我)でもって《ボディ》(≒感覚)の快楽を追求する工夫ばかりしているからで、《ハート》でもってものを見ないからだ。《ハート》というのは、アドラーが《共同体感覚》と言い、ベイトソンが《マインド》と言ったものだと思っている。自分と世界が作り出すシステムの中にある心だ。
 《マインド》によってではなくて《ハート》によって問題を見ると、まったく違って見えてくる。そのことをいちいちの事例について示したいのだ。そうすることで、クライエントにとって良い解決ではなくて、クライエントを含むシステムにとって良い解決を見つけたい。

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