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スレッドNo.70

老子でジャーナル

老子第4章
 道は冲(むな)しけれども、これを用いて或(つね)に盈(み)たず、淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。その鋭(えい)を挫(くじ)き、その紛(ふん)を解き、その光を和(やわら)げ、その塵(よご)れを同じくす。湛(たん)として或に存するに似たり。われ誰の子なるかを知らず。帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。

 「道」は空っぽで、いくら注いでもいっぱいになるということがない。それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ(現象世界の根源にある究極的な実在のようだ)。それは万物の鋭さを挫き、万物の縺(もつ)れを解きほぐし、万物の輝きを和(やわ)らげ、万物の汚れにおのれを同じくする。それは深く湛えて常存不滅の存在のようだ。私にはそれが誰の子なのかわからない。どうやらそれは天帝に先立つ実在のようだ。

※浩→一見どこにも存在しないように見えながら一切万物を無尽蔵に産み出して「道」の広大無辺な働き、人間の考えるあらゆる歴史的な時間に先行して時間というものの始源をなす道の悠久不滅さを説明しています。ソクラテスの「無知の知」は、自分の愚かさを知るものは真の知恵を求めて得ることができると説きましたが、老子は「無知のまま」でよしとするようです。確かに、空っぽの容器はたっぷり収容力があります。古いもので詰まっている容器は、一旦中身を捨てて空にしないと新しいものを入れることはできません。この部分だけは今でもいただけます。自分としては「空のままでいい」とは思えませんが。
 万物の世界は、人間の社会がそれを典型的に代表するように差別と対立の世界であり、そこには人間の鋭角的な自己主張や人間同士の複雑な反目と闘争、才知の輝きのあくどい誇示やこの世的な一切の醜悪さがひしめいています。しかし人間が無為自然の根源的な真理に目覚めるとき、その差別や対立の相はもはや道の絶対性の前にことごとく相対的なものとなり、一面的な価値観やそれを固執する尖鋭な自己主張、利害の反目や才知の衒(てら)いやひとりよがりの聖者意識などは人間の「さかしら」としてむなしく崩れ落ちる。そのとき、人間ははじめて道の無名をおのれの無名とする“名もなき民”“大いなる愚者”となるのであり、おのれの気負いを捨て去り、他人と争うことを好まず、才知の輝きを深く包んで凡俗の中に凡俗として生きる強靱な雑草の精神、重心を大地に落として崩れることなく挫かれることのない鈍角的な人生のあり方をおのれのものにすることができるのです。
 無為自然の道はまた、このように偉大なあり方を持つ万物の“宗師”でもあり、それに透徹した目覚めた人間に、このように偉大なもの言わざる強化力を持つのです。道がどうして存在するようになったのか、その始源を知るべきもないが、どうやらそれは「天」─天にましますわれらの神(カトリックの祈祷文みたい)よりももっと以前から存在していたらしい。
 こうして老子は「太古への復帰」を説いています。もちろん完全にそれが実現するわけはないです。完全な無欲は不可能ですが「寡欲」ですとこれは実行できそうです。古今東西で唱えられた「中庸」に通じそうですから。前回登場した「ボディ」の欲を満たす程度に抑えて、過剰な「マインド」の欲に振り回されないように自制することはできます。この冬のわが家の暖房は設定温度を20℃で通しました。室内でもなるべく厚着にすることで、これでしのぐことができました。この週明けは雨模様で、気温が春なみですから、暖房は朝食時だけにして、あとは無暖房で過ごせています。お風呂も隔日にしました。
 無為自然の根源的な真理に目覚めると、この世界の差別や対立はことごとく相対的なものとなります。価値相対主義は古代ギリシャのソクラテスのころ、ソフィストと呼ばれる人たちがそうでした。古代ギリシャの哲学は、自然哲学から始まりました。万物の始原を求めました。哲学の祖と呼ばれるタレスは「始原は水(湿気)である」と唱えました。この水は、さらさら流れる水ではなく、「湿気」のようなもので、「霊気」に通じると思います。生き物には湿気が不可欠で、乾燥すると死んでしまいます。タレスからヘラクレイトスなどさまざまな哲学者がさまざまな「始原」を提唱しますが、自然界には「絶対的な一つの始原」が存在するでしょうが、人間の社会では、人さまざまで、ソフィストの代表・プロタゴラスは「人間が万物の尺度である。あるものについてはあることの、ないものについてはないことの」と相対主義を唱えました。「あるもないもその人しだい」ということです。そのうち詭弁を使ってでも自説を通そうとする人たちがでて、堕落していきます。やはり、人の生き方にも「絶対的な真理」が必要ではないかと、ソクラテスが登場します。かれは「ただ生きるのではなく、善く生きることが大切なのだ。その善くというのは、美しくとか正しくというのと同じだ」と、ひたすら「善く美しく」生きることを求め続けました。そしてプラトンの「善のイデア」につながっていきます。アドラー心理学は価値相対主義の立場をとりますが、無秩序による混乱回避のために、「共同体にとって建設的であることを善」という価値観を設定しました。これで厳密科学としての地位を失いますが、おかげで心理療法に一本筋金が入り、アナーキズムを防ぐことができます。

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