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スレッドNo.72

老子でジャーナル

老子第5章
 天地は不仁。万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁。百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。天と地の間は、其れ猶お槖籥(たくやく)のごときか。虚にしくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。多言なればしばしば窮す。中を守るに如(し)かず。

 天地自然は無慈悲で、万物を藁の犬ころ扱い。「道」を知る聖人は無慈悲で、万民を藁の犬ころあつかい。天と地の間は、鞴(ふいご)のようなものであろうか。中は空っぽで無尽蔵の力を秘め、動けば動くほど万物が限りなく現象してくる。おしゃべりはすべて行き詰まりのもと、からっぽでもの言わぬままでいるのが、何よりの処世。

※浩→ここでは天地大自然の理法すなわち道が、人間のような意志や感情、目的的な意図や価値意識を持たない冷酷非情な存在であること、まして世間大多数の学者が勝手に理屈づけするように、人間だけが万物の霊長であり、人間だけに特別な愛と慈しみが注がれるのではなく、天地大自然の理法は一切万物に対して等しく無関心・無頓着であること、万物の立場から見れば冷酷無残・無情無慈悲とさえ言える、まったく物理的・自然的な存在であることを説明しています。野田先生がしばしば引用される「花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふるのみなり(道元)」はここから来ているのでしょうか。
 「芻狗(すうく)」は、お祭りのとき厄払いに使う藁でつくった犬ころで、祭りがすむと惜しげもなく投げ捨てられます。天地大自然は無慈悲な存在です。それは一切万物を厄払いの藁犬同然に取り扱い、用済みになれば情け容赦もなくうち捨てます。これはまるでヘーゲルの「理性の狡智」のようです。ヘーゲルによれば、世界精神である「理性=神」は“自由の実現”という大目標のために、歴史上で人々をあるいは生かしあるいは殺し、利用済みになればさっさとうち捨てまます。カエサル然り、ナポレオン然りです。故安倍元総理は、歴代最長内閣を達成され、米国一辺倒の外交でなく、バランス良くロシアとも中国とも良好な関係を築かれるというまさに偉業を達成されました。享年67歳は若すぎます。もっともその後、パーティー券をめぐる事件で派閥に悪評が生じたのは残念ですが。
 ここで言う「仁」は、孔子学派の「仁」のことです。ということは、「不仁」というのは孔子学派の仁愛道徳に対する批判と否定を意味しています。最近の世界各地での大規模な自然災害を思うと、一切の人間的有情を厳しく遮断する天地大自然の無情さがよくわかってきます。人間社会のどのような悲惨事にも救いの手を差し伸べようとはせず、人間のどのような慟哭と嗚咽の声にも耳を貸そうとしない。贖罪の訴えもむなしく跳ね返り、懺悔の祈りもただうつろに谺(こだま)する。老子の道は餓死者の屍の卯を颯々として吹き過ぎていく野辺の風邪、逃げ惑う線上の民の頭上に悠々として流れる白雲のように、ただ無為であり自然であり、無感動であり無関心です。人間的な有情の世界では、愛はいかに永遠性を誓ってもたちまち憎しみに変わり、喜びはどれほど絶対性を予感させてもたちまち悲しみに崩れ落ちる。人間の誇示する文明の栄華も文化の発達も、要するにそれが人間によって作られたものである限り、いつかは崩れ去り滅び失せる必然を免れない。土着化以前の純粋な仏教・お釈迦様は「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を説きました。土着化した仏教ではギンギラギンの派手な寺院が立ち並びますが、総社の国分尼寺だと建物はすでに消滅し、ただ礎石のみが残っていて、そこを寒風が無情に吹き抜ける……。人間がもし本当に崩れない生き方を持とうとするなら、一切の人間的な有情を遮断する非情な世界の必然にただ無感動に堪えていくほかはなく、もし何物をも失わない生き方を己れのものにしようとするなら、はじめから何をも持たない生活に己れを根拠づけるほかはない。ですから、一切の人間的な有情を冷酷なまでに厳しく遮断するということです。有情を否定する徹底的な事情の世界に、彼は人間の崩れない生き方、人間を超越する悠久なるものを凝視しているのです。「神は死んだ」と言って、意味を失った世界を「世界とはこんなのか、さらばもう一度!」と永劫回帰の生き方をするニーチェもかなりたくましいですが、「権力」という有情は棄てません。たくさん持つからそれが失われることをおそれるというのはよく理解できます。持たなければ失われることをおそれることはない。「ボディー」の欲で満足して、必要以上に求める強欲「マインド」の欲を制限する、“寡欲”こそよけれ、にまた戻ります。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年02月25日 07:18)

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