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スレッドNo.94

老子でジャーナル

老子第16章
 虚(きょ)を致すこと極まり、静を守ること篤(あつ)く、万物は並び作(おこ)れども、吾れ以って復るを観る。それ物は芸芸(うんうん)たるも、各々その根(こん)に帰る。根に帰るを静と曰い、これを命に復ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作して凶なり。常を知れば容(い)る。容るれば乃(すなわ)ち公なり。公なれば乃ち王たり。王なればまた天なり。天なれば乃ち道なり。道なれば乃ち久し。身を没するまで殆(あや)うからず。

 心を空っぽにして静けさを保っていると、万物がどんどん生み出されてまた元の姿へ戻っていくさまが見える。この世のすべてのものはどんどん生み出されては、そうやって根源へ帰っていくものだ。万物はこうして静寂へ還る。これを「命=本来の姿」に戻ると言う。これを「常=永遠不滅」とも言う。この法則に目ざめるのを「明=絶対の智恵」と言う。常なるあり方に目ざめなければ、軽挙妄動して不吉である。常なるあり方に目ざめれば、何びとに対しても寛容となる。寛容となれば公平無私となり、公平無私となれば王者の徳を備え、王者の徳を備えれば天のごとく広大となり、天のごとく広大となれば、無為の道と一つになり、無為の道と一つになれば、永遠不滅である。そうなれば生涯を通じて安らかに生きられるのだ。

※浩→この章も、無為自然の道を体得した老子的聖人の安らかな処世を説明しています。人間を含む一切存在の根源である無為自然の道は、虚であり静であるから、道の根源的な虚静に立ち返って、己れもまた虚の極致に達し篤く静を守ることが、己れの本来的なあり方に立ち戻ることになり、本来的なあり方に立ち戻るとき、己れもまた道の永遠不滅性を己れの永遠不滅性として安らかにこの世を終えることができるということです。
 中国の復帰の思想について福永光司先生の解説から学びましょう。復帰を人間の内面性に即して主体的・実践的に考える方向と、復帰を古今という時間の推移の中で歴史的に考える方向があります。前者では、人間の心は本来、清浄円満なのに、後天的にはさまざまな欲望知識によって掻き乱されているから、人知人欲を捨てて本来的な清浄円満に帰らないといけないと考えます。中国の仏教や道教は、基本的にはすべてこの立場だそうです。後者では、過去の時代を道が完全に実現された至徳の世で、現在を堕落もしくは下降した不完全な時代として、不完全な「今」から完全な「古」に帰ろうとします。堯舜禹の世に聖人の実在を信じて、その古聖の道への復帰を説く儒家の思想が代表です。そういえば、孔子もいにしえの周公旦の「礼」を理想にしていました。孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟です。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させました。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなくて、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たりました。周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされます。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めました。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどでした。魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制が残っていました。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門です。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があったのです。
 老子の思想も、「いにしえの極」を強調します。「古」は無為の道の完全に行なわれた至徳の時代です。「今」は道が失われ徳の衰えた堕落の時代だとします。のちに「大道廃れて仁義あり」と出てきます。また、万物は己れの根源すなわち道に復帰する存在であるとし、その永遠不滅な道に立ち返ることによって本来的な自己のあり方、絶対的な人間の生き方を実現しようとする主体的・実践的な復帰の思想が、明確に力強く語られています。
 世間の常識では、人類は「野蛮」から「文明」に発展してきたと考えます。これは「技術・科学」の面でのことで、人間の内面はソクラテスや孔子のころからほとんど成長も発展もしていなくて、むしろ退化・衰頽したとしか思えないです。というか、発展しすぎて、本来余分なものまで作ってしまったとも考えられます。核兵器やミサイルなどが好例です。余計なものを作ったために人間が不幸になるというと、たとえ土着思想であっても、受け入れる余地ができてくるかもしれません。新幹線もLEDもなかったころの人々の生活が不幸だったとは思えません。野田先生は、「ボディの欲」「マインド」「ハート」ということをおっしゃっていました。
◇ ボディー、マインド、ハート
1.全体論
 アドラー心理学では、心の要素は、一見矛盾し対立しているように見えても、実は分業し協力して同じ目標を追求していると考えます。ボディもマインドも心の要素ですから、一見矛盾し対立しているように見えても、実は分業し協力して同じ目標を追求しているはずです。
2.目標追求
 その目標とは何かというと、ボディの側から見る方が簡単なのですが、生存(=自己保存+種族保存)と所属です。マインドはこの目標の実現に向かいながら、かつ社会と折り合いを付けるために、さまざまの工夫をしています。
 こう考えると、ボディはフロイトが言う「イド」であり、マインドは「エゴ」であり、目標追求とはリビドーエネルギーのことであることがわかります。
3.ライフスタイル
 ボディには個性がありません。どの人のボディも、本能的に生存と所属を追求しているだけです。マインドは、ひとりひとり違っています。その違いをライフスタイルと言います。ボディには型はありません。
4.神経症
 ボディは動物的なものですから、悩むことはしません。欲求不満は持つでしょうが、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならないのです。
 悩みはすべてマインドが作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの目標追求と社会の要求との折り合いを付けようとするのです。その悩み方がひどくなって、現実には目標追求できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。
 例えば、「みんなの仲間でいたい」という目標(=所属)を追求しているとすると、これはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」、「友だちが離れる」ということに異常なくらい恐怖心を持っているとすると、それはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。この場合でも、幻想の中においてではあるが、マインドはボディに協力しています。しかもボディは永久に欲求不満です。
5.治療
 マインドが悩んでいるときの解決法は2つあります。「俗」アドラー心理学では、より巧妙なマインドを作り出そうとします。「聖」アドラー心理学では、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。私(野田)は、「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がするのです。だから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、ハートの目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。
 野田先生は、太古まで戻るのは不可能ですが、「昭和30年代くらいまで戻るといい」とおっしゃっていました。確かに「ボディ」のレベルは“古代のまんま”かもしれません。

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