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スレッドNo.1823

アイビーの俳句鑑賞 その2

アイビーの俳句鑑賞 その2

一日に一つの予定草を引く (玉虫) 
桑の実や十五歳まで木に登り (玉虫)
玉虫さんの高点句2句を取り上げたい。句意は単純明快。要は、作者の玉虫さんと読み手の感性が一致するかどうかだけの問題だ。失礼ながら玉虫さんは私と同年代とお見受けする。いわば何とはなしに、人生のこの先の見通しが読める年代ではなかろうか。この齢になってあれこれ欲張ることもない、一日に一つのことしかできない。またその必要もない。やれることを淡々とやる。やれるのにやらないのは横着だ。2句目。十五歳まで木登りをするのは、別に珍しいことでも何でもなかったのが私らの年代だった。女の子となるとかなり活発な子だが、あり得ないことでもない。今では男も女も木登り自体を見かけなくなったが。

空梅雨のダムの湖底の暮らし跡 (森野)
作者自身の解説でこの句の舞台は御母衣ダムと分ったが、なるほどと首肯される。渇水期にはダムの底からかつての生活の場がそのまま浮かび上がる。しかし村が再びかつての生気を取り戻すことはあり得ず、廃墟は廃墟で、いわば死の世界なのである。あたかも往時の村が復元したように見えても、似て非なるものだ。それほど時の経過は不可逆で容赦が無い。ふと、そんな事どもが頭をよぎった。色んな意味で感慨を催す句だ。

軽鳬の子はうしろが好きでママが好き (ABCヒロ) 
軽鳬は「かるがも」、あるいはこの句のように縮めて「かる」と読む。毎年今の時期にテレビなどで取り上げられ、夏の風物詩になっている。中七、座五と、とんとんと畳みかける調子が軽快で読みやすい。声に出して読みやすいということも、俳句では大事な要素だ。おまけに「好き」を二回繰り返し、リフレイン効果も狙ったあたりが作者の老獪なところ。

岡寺に万の紫陽花咲きそむる (ふうりん)
岡寺は奈良県明日香村にある紫陽花で知られる寺。長谷寺、壺阪寺とともに大和三観音・あじさい回廊として知られる。紫陽花は花の季節が長く、何時までも楽しめる花だが、作者が訪れた時は少し早すぎたか、咲き初めの時期だったようだ。それでも名にし負う紫陽花の名所だけあって、見事な景観だったことだろう。実際に数えたわけではなかろうが、万という具体的な数字が効果的。数字を出す時は少々オーバーな方がよい。こういう場合のリアリズムは無用。

お喋りな庭師三人若葉風 (弥生)
職人の典型としては、寡黙、一徹、律義などの人物像が思い浮かぶ。ところがこの句に登場する庭師は、ものの見事にステレオタイプの人物像を覆してくれた。なんとお喋りな庭師が、それも三人。これは私の想像だが、それほど年配でもなく比較的若い庭師ではあるまいか。これも想像だが、お喋りの内容がなんとも可笑しいのだ。下手な芸人よりよほど笑わせてくれる。一人一人顔や気性が違うように、職人にも様々なタイプがあって然るべきだ。おかげで客のこちらまで楽しいひと時が過ごせた。と、勝手な解釈をしたが、まるで見当違いかもしれない。

次の色悩む姿は七変化 (無点) 
紫陽花やピンクが青に色変わり (無点) 
ともに紫陽花を主題にして惜しくも無点句となったが、無点句となった理由を一緒に考えてみたい。全ての歳時記には、紫陽花は時間の経過により色が変化することが記載されている。つまり読み手は、紫陽花の色が変わることは予備知識として承知しているのであって、そこへ色の変わる様子をそのまま詠んでも、なかなか感動を呼びにくいのではあるまいか。同じ紫陽花の色の変化をテーマにしても、そこに独自の視点があれば詩になる。その実例を歳時記から抽出してみた。
あぢさゐの色にはじまる子の日誌  稲畑汀子
水鏡してあぢさゐのけふの色  上田五千石

以下次号、不定期掲載

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アイビーさん、句の鑑賞ありがとうございます。
これは有名な日本庭園を訪れた時に作りました。
まさにアイビーさんの言われるように若い庭師が数人お喋りしながら手入れをしていました。
寡黙な庭師が黙々と作業をするのも魅力的ですが、楽しそうに仕事をしている様子は微笑ましく
今風だと思いました。

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