論語でジャーナル
11,子曰く、礼と云い、礼と云う、玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓(しょうこ)を云わんや。
先生が言われた。「礼だ礼だとやかましく言うが、何も神(祖先)に捧げる玉や絹ばかりが礼ではなかろう。音楽だ音楽だとやかましく言うが、鍾や太鼓を鳴らすばかりが音楽ではなかろう」。
※浩→「礼楽の形式」よりも「礼楽の本質(精神性)」のほうがより重要であることを簡潔に述べています。神への捧げものや実際の音楽演奏だけが礼楽の道ではないということで、弟子たち、特に子張・子夏・子遊などの若い弟子たちは、とかく本質(=礼楽の精神)を忘れているので、戒めたのでしょう。
「礼」は、秩序ある善意あるいは愛情の象徴的表現で、「楽」は、秩序ある調和の象徴的表現です。象徴的表現ということは「道具」がいります。礼の道具はまず、「玉(ぎょく)」と「帛(はく)」(玉を載せる布)で、音楽の道具(=楽器)はまず鐘・太鼓です。重要なのはそれらによって象徴される精神です。
昔、水前寺清子さんが「ボロは着てても心は錦、どんな花よりきれいだよ、若いときゃ二度ない、どんとやれ男なら、人のやれないことをやれ」と元気良く歌っていました。「いっぽんどっこの歌」でしたか。彼女は熊本出身で、“女村田”という愛称もありました。浪曲演歌の大御所・村田英雄さんを思わせるパワーが魅力です。節々の端が「ぃよっ!」とか「ぃやっ!」とかで終わるのが特徴的でした。熊本と言えば、筆者は、民謡の「おてもやん」が大好きです。ところが、熊本方言で歌われているので、意味がほとんどわかりません。
おてもやん あんたこの頃嫁入りしたではないかいな (おてもさん、あなた最近結婚したんじゃないの?) 嫁入りしたこたしたばってん (結婚したことはしたけれど) ご亭どんがぐしゃっぺだるけん、まあだ杯ゃせんだった (旦那が天然痘跡が残っていてブ男なので)、まだ三々九度の杯はしてないの) 村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝入り(きもいり)どん (村の役付きさんや火消しの頭や仲人さん) あん人たちのおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい (いろんな世話役がいらっしゃるので、あとはうまくとりなしてくれるでしょ) 川端町つぁんきゃあめぐろたい (それより、川端町の方に回って歩きましょう♪) 春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり (春日のかぼちゃのような男たちが裾を引っ張ったりして、私は人生の花盛りなの♪) ピーチクパーチクひばりの子 玄白なすびのいがいがどん (ひばりのように浮かれっぱなしの男や、野暮ったいイガグリ男たちは私の趣味ではないからね!)
一つ山越え も一つ山越え あの山越えて 私はあんたに惚れとるばい 惚れとるばってん 言われんたい おいおい彼岸も近まれば 若者(わきゃもん)衆も寄らすけん 熊本(くまんどん)の夜聴聞詣(よじゃもんみゃ)りに ※夜説教を聞くこと ゆるゆる話も きゃあしゅうたい(ついでだからやりましょう) 男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それがそもそも因縁たい あかちゃかべっちゃかちゃかちゃかちゃ
おてもやんは、見かけだけでなく、煙草入れの銀金具が素敵だとかそういう男っぷりに惚れる女性のようです。なかなか粋な女性です。「おてもやん」については、肥後(熊本)の若い女性の通称とも、明治の終わりに実在した人物とも言われているそうですが、真相は定かではありません。作詞、作曲、 振付けは慶應元年生まれの永田稲(イネ)さんだと伝えられています。