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高1女子、不登校で「そっとしておいていいか?」

Q
 子どもは高校1年の女子です。中学3年生のときから不登校です。現在兄は高校3年生、弟は中学1年生。彼らは登校しているが、高1の子は高校に入学したものの、1日も登校していない。家では夜遅くまで起きていて、昼まで寝ている。風呂に入るのも恐がり、人に会うのも恐がる。カウンセリングを受けたが、このままそっとしておくことを勧められた。いまだに回復しないので心配しています。

A
 そっとこのままにしておくということに、ちょっとひねりがあるんです。心配しながらそっとこのままにしておくと、事態は変わらないんです。
 例えば、人に会うのが恐いとか、お風呂に入れないということが起こったとします。またもっとすごいと、例えば、幻聴が聞こえるとか、隣のおじさんがいつも私のことをつけ狙っているとかという妄想が生じたとします。これは、心理学的に言うと、無意識がやっているわけです。無意識はなんでそんなことをやっているかというと、必要があるからやっている。どんな必要かというと、それはわからない。いったいどんな必要があって、そういう神経症とか精神病の症状が出るのかわからないけれど、そうでなければならないんです。そうでなければならないんだから、心配しなくてもいいんです。そうでなくてもよくなったら治りますから。
 どんな病気でも僕(野田)は心配しません。この程度のことだったら、心配さえしなかったら治る。心配しながら待っていると治らない。このお母さんは、かなり心配しているようだから、なかなか治らないでしょう。

 なぜ治らないか、そのメカニズムがわかることはわかります。
 まず、きょうだいが3人いて、真ん中の娘さんは他のきょうだいと競争して、お母さんの注目とか関心とかを引きつけようとしているわけですね。およそ、きょうだいというのはみんなそうです。親は賞品で、きょうだいがレースをしている。建設的な方法、例えば、勉強ができるとか、友だちが多いとか、親孝行であるとかという方法で、親とつながれる子どもは問題を起こさない。他のきょうだいがみんなそっちで勝ってしまって、「私は負けだ」と思うと、できるだけ具合が悪いことをして、親とつながろうとするんです。
 子どもにとって、無視されて関係が断たれるのが一番恐いんですね。われわれだって、友だちの中に入っていって、誰も挨拶してくれないし、口もきいてくれないと、そのうち何か変なことをするようになるでしょう。何とか目立とうとしますね。子どもの問題行動というのは、全部これなんです。
 小さな子どもが「お母さん、遊んでよ」と言うのに、知らん顔をしてますと、何か悪いことをするようになります。「何するのよ!」と言うまでします。で、「何するのよ」と言われて、子どもは実は喜んでいるんです。「あっ、お母さんはこっち向いた」と思って。この子は、できるだけ親に心配をかける子どもでいることによって、親との関係をずっと続けていこうとしているんです。
 それでは、この子がこんなことをしなくてすむようになるにはどうしたらいいかというと、そのことに関して心配しなければいい。そしてもっと良いことでつながればいい。その子がやっている建設的な出来事、例えば元気が良いとか、慎重であるとかに注目する。「臆病だ」と言わない。「内気だ」と言わない。「あなたは繊細だね」って言う。そうしたらその子は、臆病で、内気な子ではなくなります。慎重で、繊細な子になります。そうすると、彼女は自分の使い方を覚えます。自分の性格に良い名前をつけると、それを使えるようになる。このお母さんは、どうもこの娘さんの欠点を見る癖があるのかもしれない。
 でも、欠点というのはそのままで長所なんです。ちょっと助けてくれたときや、ちょっと良いなと思ったときに、声をかけていくとすごく変わってくる。良いことをしたときのほうがつながれるということを学んでくれる。
 よく学校の先生が「クラスに宿題を忘れる子がいるんですが、どうしたらいいでしょうか」と言う。これは簡単です。宿題をやってくれた子にお礼を言えばいい。「宿題をやってきてくれて、ありがとう」って言えばいいんです。そしたら、宿題をやってこなかった子は、「あれっ、これはやってきたほうが関係が持てるな、やってこなかったら関係が持てないぞ」と思う。ところが普通は、やってこなかったら関係が持てるんです。「お前、なんでやってこないんだ!」ってね。やってきて当たり前だから、やってきた子には声がかからない。そしたら子どもたちは、「どうせ僕(私)は、先生から良い形では注目されない」と思う。そのときに、例えば、宿題をやってこない、忘れ物をする、教室から外へ出て、フラフラと歩くということを始めるわけですね。ちゃんとやってきている子と、良い形でつながることだけやっていれば、みんなが良い形でつながろうとするようになってきます。
 このおうちでも、お兄さんとも、この子とも、良いところだけでつながっていけば、悪いことで競争しなくてもよくなるんです。今、きょうだいが競争していると言いましたが、きょうだいが3人いて、1人だけ不登校して、残りの子がしなかったら、今言った理屈なんです。何人かがしたというのだったら、育児がかなり根本的に間違っているかもしれない。きょうだいが2人以上不登校だったりすると、育児の構造にかなり問題がありそうです。それは何かというと、悪いところで注目を与えていて、良いところで注目を与えていないという構造があるんじゃないかと思います。きょうだいが3人いたら、それぞれみんな違います。そのみんな違う個性の部分で、親が喜び勇気づけていかないで、みんな一律にやっていくと、きっと誰か落ちこぼれていきます。

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高校浪人中に乱暴だった息子を信頼できるようになるか?

Q 
 子どもが高校浪人時代に家具を壊したり物を投げたりしてきました。アドラー心理学を勉強してきたのですが、彼がしたことに被害者意識を持っています。心から信頼できるようになるでしょうか?

A
 「なるでしょうか?」「明日は天気になるでしょうか?」みたいに他人事みたいに言わんといてよ。信頼するとか信頼しないとかいうのはどっちも嘘なんですよ。アドラー心理学というのは面白い考え方をしていて、ほんとのところはまず人間には知りえないと思っている。例えば、僕に奥さんがいたとします。「山登りするからお弁当を作ってよ」と言ったとします。「いいよ」とお弁当を作ってくれたんです。そのお弁当がわりとおいしかったりして、妻に愛されていると思ったとします。自分は妻に愛されていると思うから、それから妻とのつきあい方が変わります、その分だけね。また「ピクニック行くか山に登るからお弁当作って」と言うかもしれない。でも、おいしいお弁当を食べたけど、これちょっと塩分多いし、少し脂肪多いし、私の血圧を上げて殺そうと思っているんじゃないか。そういえば最近生命保険に入ってたなというと、あの妻は私を殺そうとしているだと思うじゃないですか。そしたらその妻とのつきあい方が変わりますよ。あるいは、おいしいな、そういえばこの前料理番組見てたから、あれを真似したかなと思うかもしれない。別に私を愛しているからじゃなくて、たまたまテレビ見てたらこれ面白そうだから作ろうと、自分の楽しみだけで作った、「あいつあんな奴なんだな」と思うと、そうやってつきあいますね。そうやってつきあってくることが次々重なってくるでしょう。どうもうちの妻は自分を殺そうとしているようだと思うと、次、その証拠を集めます。何だってそういうふうに見えるから。「お茶入れて」。「渋いな。これも心臓を悪くしようと思っている」とか思うかもしれない。「あいつは何だか新しい物に食いついてはさかんに私を実験台に使うな」と思うとそう思うし、「私のことを深く愛してるな」と思うとそう思うから、その証拠を集めてだんだん確信してそのようにつきあうと、彼女もそれに対して応答してくるから、ほんとに実現してくるわけね。愛されてるなと思うとほんとに愛されてくるし、殺そうと思っているなと思うと、ほんとに殺そうと思っているようなギクシャクした関係になっていくわけです。で、一番最初の根拠はないんです。最初のは誤解なんです。ここでの信頼とか信頼しないとかどうやったら不信感を取れるかという「不信感」は誤解なんです。ただ勝手に思い込んでいるだけなんです。それから「信頼関係」も誤解なんです。それも嘘なんです。どっちを思うかは実は何の根拠もなしに決められるんです。いっぺん決めたら、長いこと信頼できませんから、三日間くらい、今日から三日くらいとにかくあの子を信頼してつきあおうと、腹立つし不自然だし悔しいけどやってみようと思って、三日つきあうでしょう。三日つきあうと疲れます。だから四日休むんです。また三日つきあうと、その三日はちょっと楽です。そうして練習を繰り返してだんだん上手になっていかれたらどうですか?そしたら息子さんの出方が変わってくるから。こちらが変われば。そうしたら信頼できるようになる。それも誤解の産物なんですがね、最終的には。でもいいじゃないですか、美しい誤解のほうが醜い誤解よりも。(回答・野田俊作先生)

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劣等感の大きさと共同体感覚

Q 
 長いなー(浩→どこが長いんでしょうね)。まあいいや、文句言わない。仏様のお計らいで…。野田先生の「劣等感について」のテープを聞きました。劣等感の大きさは共同体感覚の大きさと反比例している。劣等感の大きい人はきっとまわりにたくさんの迷惑をかけているとありましたが、そのへんについてもう少し説明してください。

A
 あれ、嘘だと思うんだけどねえ。ドライカースが言ったんです。「劣等感の大きさと共同体感覚の大きさとは反比例する」と。ドライカースの本があります。『アドラー心理学の基礎』です。いっぺん読んでください。僕はあまり信じてないんです。「そういうことを言った人がいますよ」と言っただけです。(回答・野田俊作先生)

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自己嫌悪

Q
 私は関西に引っ越して1年たちました。『アドラー心理学トーキングセミナー』を読みました。私は10年、20年前、精神的ショックで何となくずっと自分は価値がないと思い続けていました。本を読み、人は思い込みから自由になれないというところが自分にぴったりだと思い、ずっと自分に恥じているところも自分のことを書かれているようでびっくりしました。こんな私が赤ちゃんを産んだら、きっとその子は不幸になるような気がして、一生子どもなんか産めないと思います。どうして妊婦さんはあんなに自信ありげに歩けるのかと思うと、すごく羨ましくもありショックでもあります。引っ越しにめげて、心療内科ににときどき行っているのですが、先生はこちらに来て10人以上も友だちができたそうで、私を見て、「何言っているんですか。あなた、たくさんの友人もできて価値がないなんてことありません」と言います。それでも何となく私が自分を否定しているのを見て、先生も最後に「そんなに価値がないと言うんだったら証拠を見せなさい」と怒りだしました(野田:怖い先生ですね)。私は先生に対して信頼と不安を同時に持って常に接しているんです。また白衣に対して恐怖感を感じてしまうんです。病院にいて先生はすごく誠実に話をしてくださるんですが、絶えず安心と不安を同時に持ってしまいます。眠れなくなりました。なんで病院に行っているのかわからなくなりました。その先生に「アドラー心理学の本がある」と勧められました。その緊張状態は、私と先生の相性が悪いのでしょうか?私の考え方がちょっと違う方向に行っているんでしょうか?病院を替えたほうがいいのでしょうか?

A
 あのー、私は自分のことが好きなんです。でもこれは実は妄想なんです。誇大妄想。間違いなんです。ほんとは自分のことを恥じるべきで、嫌いになって罰するべきかもしれないんです。別に嫌いになって罰してもいいんです。それも妄想なんです。間違いなんです。いいですか?私が自分のことを好きであろうと嫌いであろうと、恥じていようと誇りに思っていようと、全部思い込みなんですよ。全部大した根拠はないんです。私、自分のこと好きなんですよ。この先生がもし、「自分のことが好き?それはいけませんね。あなた自分のことが好きな証拠を持ってきなさい」と言っても、証拠なんかないんです。ただ私が勝手に思い込んでいるだけなんです。嫌いなのも同様に私が思い込んでいるだけなんです。この方もだから妄想に凝り固まっているんです。人間はどんな種類の妄想でも持てます。どれも全部根拠はないから。みんな嘘だから。だから、都合のいい妄想を持ったらどう?今の妄想はなぜそんなにしっくりと自然に持ててるか?自分を恥じるとか、自分を罰するとか、自分を嫌いというのは、しっくりと自然に自分に馴染んでいるんです。なんでそんなにしっくり自然に馴染んでいるかというと、お稽古をしたからです。私がアドラー心理学をお勉強するきっかけは、私の先生のバーナード・シャルマンという人が、統合失調症についての本を書いたんです。その本を読んですごく感動したのは、統合失調症者はどうして統合失調症者かというと、小さいときから統合失調症者になるお稽古をしたからだ、と書いてある。おー、すごい!あれはお稽古のせいで、ついに18歳ごろにお稽古が結実して、立派に妄想が出てくる、幻聴が聞こえるんだ、と言うから、おー!これはすごい発想です。それまでは統合失調症という病気が外から来てかどこから来てかは知らんけど、患者さんに取り憑いて、患者さんは被害者で病気が加害者だと思ったんだけど、その本を読んでから、「あれは患者さんが発明したんだ。しかも長い鍛錬の結果ついに身につけた行動なんだ。だからあまり身についているから、患者さん本人にとってはまったく自然なんだ」とわかったんです。それであんまり面白い考え方だから、ひとつアドラー心理学をきっちり勉強してみようと思った。この方も、自己嫌悪というか自分を恥じる心を20年とか30年とかお稽古なさったんですね。だからすごく上手に身についてんですね。上手に身についたけど、この人にとっては自然だけど、でもやっぱり妄想なんですよ。お稽古の結果身についたもんなんです。それは今度また違うお稽古を始めると、結局取れるんです。取れるんですが、違うお稽古を始めた最初のころって大変なんです。そんな体験したことないですか?私あります。合気道というのを習ったことがあるんです。師範が言うんです。「自然に歩くことだ」と。自然に立ち、自然に座り、自然に歩く。「わかりました。歩きます」と歩くと、「お前のは全然自然じゃない」と言うんです。「でも歩いてますよ」「それが全然自然じゃないのだ。このように歩くのだ」と言われて、そのとおり歩いたらすごく不自然なんです。師範の言うとおりに座ったらすごく窮屈なんです。それはそうなんです。今まで不自然な座り方とか歩き方とかが身についているから、それを矯正されたときはすごく変な感じなんです。体全体にね。こんなおかしなことをしていていいのかなと思うけど、でもまあそれでもしばらくやってるんです。半年か1年すると変わるんです、自分の姿勢全部ね。それでもう少し合気道ふうに歩いたり座ったりできるんですね。それまでの期間、すごく不自然だしおかしいんです。何か体が嘘を言っているみたいで、肩も凝るし腰も痛いしどうなんだろうって思います。で、心の問題だってそうなんで、自分を好きだとか、人にはそんなこと言えないけど実は天才なんだよとか、なんて素敵な私なんだろうと鏡を見るたびにナルちゃんになっちゃって、まあなんて素敵なんだろうと思ったりしても、これは嘘だって一方で囁いちゃうし、不自然だしイヤな感じなんです。お稽古だって割り切って自分のカラダを褒めてほしい。この人女性でしょうね、きっと。女性だったら、カラダを受け入れることを最初にしてほしい。男性もそうなんですけどね。顔を受け入れるのは難しいんです。いろいろ注文が多いんです。人間って顔を見分ける力、識別、認知力、細かい特徴まで見分ける力が強いでしょう。だから自分の顔だって、細かいところまで気にしちゃうんです。誰も見てないようなところ。だから、首から下のいいところを探して、そこを素敵だなと思うお稽古をしてほしいんです。それから毎日毎日の一日に自分のやったいいこと、建設的なこととか、他の人への貢献的なこととか、進歩したこととか努力して工夫したこととか、いいことを日記に書いてほしい。日記というのは、自分がどんなに素晴らしい人か、なんて素敵な人かを書くためにある。ニーチェが『この人を見よ』という一種の日記を書いていますが、「私はなぜこんないい文章を書くのか」とか「私はどうしてこんなに頭がいいのか」という題で、自分がどんなに頭がいいか書いている。彼はすごく劣等感の強い人だったから、そうやって自分を受け入れるお稽古をしていました。われわれもやったらいいです。人に見せないですから。「自分はOKだ」という練習を、まあ半年間しっかりやってください。そしたらそっちのほうが自然になっていくから。だって、そのほうが結局やってみると住み心地がいいんです。やるまでは「そんなバカな」と思うけど、まあ初めの数日なんかすごい抵抗があるけど、そこを乗り越えるとだんだん身につきますから。(回答・野田俊作先生)

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小4男子の友だちの母親をアドラーに改造できないか?

Q 
 小学校4年生の男の子がいます。仲良しの友だちと塾へ行っていますが、2人とも基本的には勉強が嫌いなので、いつでもやめたいと思っています。しかしお友だちのお母さんが普通のお母さん、つまりアドラーママじゃないので(野田:そうか、アドラーママは普通じゃないお母さんなんだ)、「勉強をちっともしないんだから塾は絶対やめたらダメ」とその子が言われているので、うちの息子も彼につきあって毎週通っています。2人ともブツブツ言いながらやめずに今まで続いていますが、その子の母親をアドラーに改造しようというのは、2人の子にとって良くないことでしょうか?

A
 良いことなんですけど、改造されないでしょうね、きっと。多くの日本中の全お母さんをアドラーに改造したいものだと私は思っているんですけど、向こうは商品を買わないんですよ。で、押し売りをすると結局ダメなんです。アドラーを押し売りしたことはないですが、学校の先生なんかが変にカウンセリングかなんか勉強して、(学校の先生がカウンセリングを勉強する運動に反対しようと思っているんですが)、望んでないお母さんに、自分で学んだことの押しつけをやるんです。そうするとお母さんはいっそう意固地になって違うことをやったり、あるいは望んでないけど先生に脅されてその方向でやったら、変な中途半端な育児になったりして、かえって具合が悪いように思うんです。アドラー心理学の押し売りをすれば、「あなたの息子さんは、あなたが今アドラーを学んでおかないと、将来きっと非行少年か精神病者になるでしょう」くらいのことを言うて押し売りすれば売れるでしょうけれど、そういう姿勢で学ばれてもあまり身につかないでしょう。身についても中途半端な身につき方をするから、変な母親になるだろうと思う。子どもを殴る親がいるでしょう。「あんたバカね、バチーン」と。それが変に心理学を勉強すると、殴ろうと思ったときに、心理学が止めるんです。「子どもを殴ってはいけない」と。手を振り上げて、子どもを殴ってはいけないと思う。子どものほうは殴られると思っているのに、お母さんの手が止まってしまうんです。子どもにはすごく不気味です。なんで止まっちゃっているんだろうと思うでしょう。その母親は、昔殴っていた母親よりも子どもにとってはもっと扱いにくい。それだったら、いっそ殴ってくれるほうが、私としてもいいと思う。徹底的にアドラーやって、「今までの育児を全部やめます、罰するのをやめます」だと、これはベストなんです。その次に良いのは子どもを殴っている母親で、殴るのやら殴らないのやらわからん中途半端に止まっている、時には殴り時には殴らんとか、殴ろうと思って止まって、怒りながら口先だけ「ごめんね」というようなややこしいコミュニケーションはやめてほしい。そんなことになりそうに思う。もしもどうしてもアドラーの宣伝をしたかったら、お宅の坊ちゃんとしっかりつきあうしか手がないと思う。ブツブツ言いながら塾へ行くとか、友だちが行っているんだから僕も一緒に行ってあげようとかいうのはすごく良いことだと思う。子どもを快適な環境で、快不快の「快」ね、快適な環境で暮らさせようと思ってない、アドラー心理学は。一生にはつらいことがいっぱいあるだろうと思う。僕たちが子どもたちをすごく快適な環境で暮らさせたら、つらいことを乗り越える力がなくなるじゃないですか。だから、塾イヤで学校イヤで先生嫌いというのは、子どもを鍛えて強くするのに良いチャンスです。この子はそれに耐えてくれているから、その耐えてくれていることを勇気づけしたい。「塾嫌いなのに毎日よく行くね。すごい感心しちゃう」と言ってあげたい。「あなた見てるとすごく頼もしいと思うし、あなたのことを誇りに思う」って言ってあげたい。そうすると子どもはもう少し気軽に塾へ行けます。バックアップがあるから、精神的な。そうやって子どもとの関係がほんとの意味で良くなっていけば、お友だちのお母さんも、「あんたとこうまいこと躾けてるね。どうやったらああなるの?」と聞きに来るから、そしたら「実はね…」ってこう教えられます。実績を見せないと、口先だけで「アドラーを」と言っていても、自分の息子とまだちゃんとできてないように思うんです、この話を聞いていて。「スポック博士の育児書」だとか「親業」だとかがアドラーと違う1つの点は、子どもを楽にしてやろうと思っているところです。もちろん僕らは子どもを苦しめようとは思っていない。苦しめようと思わなくても、この世には苦しいことつらいことがいっぱいあります。昨日まで幸せに暮らしていたのに、突然地震が来てみな潰れる世の中なんです。そのときに人間のほうが潰れるか潰れないかは、人間の強さによるでしょう。今までに全然つらい目に遭ってこなかった人は潰れますね。赤ちゃんが生まれて、赤ちゃんをつらい目に遭わさないために保育器で育てます。快適な温度で、お腹が減ったらスッとミルクが出てきて、おしめが濡れたらすぐロボットが取り替えてくれて、何もしないで20歳まで育ったら、その人はどんな人になっていると思う?植物人間でしょう。何にもできない人になっています。僕たちが成長して賢くなっていって強くなっていくのはどうしてかというと、赤ちゃんの状況というのはつらいんですよ、大人の状況よりも。だって自分でおしめ替えられないし、自分でお腹いっぱいにならないでしょう。つらいもんだから、何とか大きくなってお父さんお母さんみたいに歩けて、自分でご飯食べられて自分でトイレ行きたいと願うわけです。子どもには劣等感があるわけです。その劣等感を克服する力でもって賢くなっていく。子どもを快適にしちゃうと劣等感が小さくなって、それを克服しなくてよくなるから成長しなくなります。今塾へ行くのはすごく大変だと思うけど、こんなのはチャンスなんです。子どもが成長するチャンスですから、たくさん勇気づけてあげてほしい。お勉強することも大事ですけど、友だちと一緒にいることもすごく大事です。友だちがつらいときに一緒につらい目に遭ってあげるというのがほんとの友だちで、雨の日の友だちがほんとの友だちで、晴れて天気の良いときには誰でも一緒にいられますが、つらくなったときに一緒にいないと何にもならない。遠藤周作さんの「沈黙」というものすごい怖い小説があります。読むと夜寝られなくなる。キリシタン迫害の話です。そこに1人のキリシタンの男の人が出てきます。この人はすごく心の弱い人で、主人公のポルトガル人の神父さんを何度も何度も何度も裏切るんです。「俺だってキリシタンが認められて迫害されていないときだったら良い信者でいられて、ちゃんと天国まで行けただろう。今みたいに迫害されているから裏切らないとしょうがない」と言うんです。でも僕は思う。天気の良いときに、国がキリスト教を認めているときキリスト教徒でいられる人は、ほんとのキリスト教徒かどうかわからないので、キリスト教徒か死ぬかどっちか選ぶ、生き残りたかったらキリスト教をやめる、キリスト教でいるなら死ぬという状況でキリスト教徒でいる人はキリスト教徒だと思うんです。これは別に踏み絵もないし死刑もないですが、友だちが苦しい目に遭っているときに自分だけ逃げ出して、自分は楽をしようというのは友だちじゃなくて、苦しいのに一緒にいるのはほんとに良い友だちですから、「あんたすごい良い友だちよね。尊敬できる」と言ってあげないといけない。で、子どもがどれだけちゃんと大人になれるかというのは、勇気づけの力による。勇気づけが褒めるのと違うのは、子どもがつらがっているとき苦しんでいるときに勇気づけできる。そのときこそ勇気づけしないといけない。子どもが喜んでいるとき、学校で良い点を取ったとか、お友だちと楽しく遊べているときは、別に勇気づけしなくていいんです。もうそのことで勇気づけられているから。子どもの点数がすごく悪かったとか、お勉強嫌いなのにやっているとか、子どもの気分の悪いとき、これが勇気づけをしてあげる場面なんですよ。だから工夫していつも勇気づけしてあげてください。(回答・野田俊作先生)

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