Q
子どもを3人(8歳、5歳、4歳)育児中です。8歳の子どもが自閉症だと言われています。いろいろなことにこだわりがあり、危険なことや迷惑をかけること以外は見守っています。水遊び、偏食など。最近、下の子どもが何かというと、「○○ちゃんはやっていない。○○ちゃんはよいのに」と言います。凄く不公平感があります。どういう対応ができますか?
A
自閉というのがどういう自閉かわからないんですが、自閉という言葉も乱用されていますので。医学的にね、きちっと自閉症なんかどうかわからなくて、お医者さんはまあ「自閉気味ですね」と言ったりする。医者は滅多に言わないですけど。ホントの児童精神科の専門家はあんまりそういう物言いはしないんですが、小児科の専門家は言わないんですけど、まあそうでない人もいますから、いろんなことを言います。昨日ちょうどカウンセリングに出てたけど、自閉に関してホントに自閉だとその子たちを治療教育するのはアドラー心理学の首尾範囲外なんです。それは、アドラー心理学というのは言語的な心理学ですから、言葉を使って子どもと意味のあるコミュニケーションができてないと難しいんです。言葉がないタイプのあるいはあってもその言葉が十分使えてないタイプの子どもたち、自閉であれ発達遅滞であれに対しては、行動療法・応用行動分析というやり方をお勧めしています。僕たちも、ホントに自閉の子どもが来て、「どうでしょう」と言ったら、応用行動分析の先生をすぐ紹介します。できるだけ早く、できたら3、4歳くらいから治療教育に取りかかったほうがいいからね。応用行動分析を勉強してなかったら、是非、二瓶社「はじめての応用行動分析」なんかを読んでくださいな。やり方は簡単で、普通の親でも家でできますから。それと、この子を援助するのは家族全員の仕事なんです。このことを子どもたちに徹底してほしいの。親が子を育てるんじゃないです。みんなでみんなの育て合いっこをするんですよ。だから、彼がある問題を抱えていて、ある特別な個性を持っている子なんで、みんながみんなの個性を認め合って暮らさないといけない。みんながおんなじでなきゃならないことは全然ないんです。今の学教教育は全員おんなじでなきゃならないということを教えますから、あれは間違ったイデオロギーです。凄い不平等だし、もの凄い差別だと思うんです。子どもは個性的であっていいんです。全員が個性的であっていいんです。だから自閉児は自閉児の個性でいいんです。個性でいいんですけど、社会と折り合いをつけて暮らしてほしいから、折り合いをつけるためにいくらかの援助をしたいんです。その援助は、僕たちもするけれど、きょうだいもしてほしいんです。だから、きょうだいにその説明をしてほしいの。「あなたはこの子にどんなことができるかな?」「例えばこんなことができるかな?」「こういうお手伝いはできるかな?」と。サムエル・ハヤカワというもう亡くなりましたけど、アメリカの有名な言語学者がいてね、ハヤカワ先生のおうちにダウンの子が生まれたんですよ。そのダウンの子とずーっと暮らした記録を本にして出されました。もう絶版になったんだけど。ほんとに家族全員がその子を育てていくんです。きょうだいもみんなが。これって正しい方向性なんです。「親が子どもを」という考え方そのものが縦関係じゃないですか。だから、お父さんもお母さんもきょうだいみんなも、この子が幸せに暮らせるように協力体制を組むんだよっていうことを子どもたちに伝えてほしい。だから、「あの子はしない」と言ったら「あの子はしない。その代わりあの子は他のことをする。で、あなたはそれをする。であの子を助ける」と答える。助けるってすごいいいことで、人を助けられるのはいいことです。私は人を助ける職業に就いてほんとに良かったと思う。子どもにも人を助ける喜びを見出してほしいんですよ。だから、「お兄ちゃんのお手伝いをしてくれてほんとにありがとう」って言ってあげてほしいのね。
Q
専業主夫をすることになりそうです。育児をする上で気をつけたほうがいいことはありますか?
A
ありません(笑)。まったくありません。アドラー心理学をしっかり実践するだけです、男であれ女であれ。アドラー心理学というのは「性別」がないんです。「男アドラー」と「女アドラー」とないんですよ。「男だからこうしなきゃならない。女だからこうしなきゃならない」という話をたぶんあなた方は聞いたことはないんです、私からは、他の人からも。男性性・女性性ということについてアドラーはちょっとだけ若いころに言っています。「女の人が自分の女性性を否定するのは悲劇だ」って。だから、自分が女性であることを受け入れられるように、社会的にも育児とか教育の中でも援助すべきだって。男性性についても当然そうなんですね。男性性の受け入れということは当時はあんまり問題にならなかったんです。当時、男優位の社会で男に生まれるとかなり便利でしたからあんまりなくて、女の人は無茶苦茶不便だったんです。20世紀の初めのヨーロッパの特に中流上流階級の女性たちはとても不便な生活をしていました。例えば、上流階級になると、結婚なんか完全に親が決めて見も知らない人と結婚させられちゃうんです。まあ一種の政略結婚で、商取引とか土地の財産分与とかと関係しながら結婚されられちゃうんです。結婚すると完全に家庭の中に縛られて外出の自由なんか全然なくて、友だちとおしゃべりなんかできない。電話もないし、もちろん外へ行くこともできないし。上流階級になると、今の女性と違ってショッピングなんか絶対行っちゃいけないんで、日本でもそうでしょう。昔は上流の女性は自分で買い物に行ったりしないです。みんな召使い・腰元なんかに行かせるわけで、何してるかというと何もしてないんですよ。で、欲求不満になるんです。欲求不満だと、週に1回日曜日に教会に行って、上流階級の女性たちと少しおしゃべりをするくらいしか楽しみがない。大奥みたいな生活をしているけど、みんな凄い欲求不満で、カリカリに怒ってたんです、女に生まれて損だと。だからアドラーは、女性性を受け入れることを問題にしないといけなかったんです。幸いにして、そういう女性の極度に拘束された状況はずいぶんマシになってきました。今も世の中にバカ者がいますから、女の子が歩いていたらさらおうという類いがいますので、女子が夜歩いたりすることを、僕らは規制しなければならないけど、そんなのもやがてなくなればいいんだけど。
一方、男性のほうは当時に比べるとやや苦しい。社会的な期待がいっぱいあって、働かなきゃいけないとか、アメリカだと兵隊行かなきゃならないとかあったりいっぱいあって苦しいので、それで男性性の受け入れを拒否するタイプの人々がこのごろときどき出てきていますよね。そういうことについては確かにアドラーはコメントしたんです。僕らが育児と教育の中で、男が男の体と男の心、女が女の体と女の心、男の人生と女の人生を、おのおの祝福して受け入れられるようにする配慮をいっぱいしなきゃいけないなと思いました。そういう意味でもフェミニストたちの男女同権論とは違うんです。男は男として生きなきゃいけない。女は女として生きなきゃいけない。現実をリアルに認めたいと思うんです。男性性、女性性をなくしちゃったら凄い不幸だと思う。男らしさ女らしさとかいうものを、闇雲に否定したって何も起こらないと思う。それはそうなんですけど、じゃあ、育児とか家事とかの中で男と女の役割の違いが固定的に決まっているかというと決まってないと思うんです。だから男が育児をしても女が育児をしても、男が家事をしても女が家事をしても、それは一向に構わないと思う。そんなところでは決まらないから。ただ男に「子ども産め」と言われたら困るので、どうやって産んだらいいかわからないからそれは無理です。それから産んだあとの0歳児育児を「全面的に」男に任されるとかなり困るんです。0歳児を育てる遺伝子が僕たちにはついてないんです。僕らは寝ていて赤ちゃんが泣いたら、夜中でもお母さんは目が覚めて授乳したりしているの。側に寝ている男は、カーッと寝てたら朝になって責められて、「あんた気がつかなくていいわね!」って言うけど、あれは遺伝子の問題なんです。僕たちの意識の問題じゃないんです。いくら注意したって起きられないんです。母親にはそういうスイッチがついてるんだもの。そんなところで責めてもらうと困るけど、子どもが物心ついておしゃべりするようになったら、歩いておしゃべりするようになったら、もうあんまり変わらないんです。だからその年頃になれば、父親が育児しても大して問題にならないです。この問題と少し違うんですけど、「0歳児・1歳児とかをね抱えたお母さんが仕事をしていいかどうか」という質問があるんですけど、僕は反対なんです。アドラー派はみんな反対なんですよ。いわゆる乳児から幼児にかけての子どもたちは母親と一緒にいることが必要だと思うんです。それは子どもに訊けば一番よくわかるもん。「お母さんとお父さんと家にいるのはどっちがいてほしい?」と訊けば、「お母さんにいてほしい」と言うじゃない。それは自然的なことですから、それを社会的に無理やり変形しないほうがいいと思う。0歳の子どもを抱えているお母さんが、働かなくてもやっていけるのに、例えば育休を取ったりその他の形であるいは仕事をやめちゃっても夫の収入で暮らせるとして、「働きたいから働く」というのは育児のために良くないと思う。食べられないからどうしても生きていくために泣く泣く働きに行くんだったら、それはしょうがないと思う。0歳児、1歳児、2歳児、3歳児くらいまで、母親が側にいて子どもと機嫌良く遊んであげることはしたほうがいいと思う。だってそれは子どもを産んだ責任だもん。もちろん夫も手伝わなきゃいけないけど、その時期に男に手伝えることはあんまりないんですよ。責めないでね。現実にないんだもん。もうちょっとしたらあるから、たくさん。まあ、子どもが就学年齢に達していれば、男だからどうということは全然ないと思う。
Q
最近、「子どもの自己決定権を大事にしよう」などと聞きますが、子どもの責任はどっか行ってしまったようです。自己決定権についてお考えをお聞かせください。
A
私、反人権論者なんです。人権キライ!「人権」という概念を遡って考えたいんだけど、最初に「権利 right」、「人」のついてない権利を言ったのはイギリスの革命の中でなんです。イギリスで「マグナカルタ」とか「権利の章典」とかがあって、そこで「権利」という言葉が使われ始めました。あれは何を意味していたか?イギリスという国は外国の王様が治めている国なんです。今もそうです。イギリスのエリザベス女王はイギリス人じゃないんです。ハノーバー公爵というドイツ人の子孫なんです。イギリスの王様は血統的にはドイツ人なんです。もっと昔、イギリスの革命のころには血統的には、フランスから渡ってきたノルマン人というバイキングなんです。そのバイキングの貴族がイギリスを占領したんです。で、もともとイギリスにいたサクソン人たちがそれに従うことになったのね。まあ、それなりにやってたんです、両方でああのこうの言いながら。ところがときどき謀略な王様が貴族の古来の権利を侵すような法律、例えば税金を引き上げるときには貴族たちの承認を得ないといけないという慣習法があったんだけど、それを無視して税金を引き上げたりする王様がいると、貴族たちが集まって王様に向かって、「古来の権利を認めるかあんたが辞めるかどっちかだ」と言ったんです。それがイギリスで言うところの権利です。つまり権利というのは、伝統的にその国に認められている権利のことね。昔からの慣習法の中で認められている権利を「権利」と言います。これはまったくOKなんです。われわれも伝統的に認められている権利がたくさんあると思います。
一方、「人権」というのはフランス人が作り上げた考え方で、これは伝統と何にも関係がないんです。フランスの慣習法と何の関係もなしに、およそ「天与の人権」、人間は初めから絶対的に権利があるんだと。その根拠は何にもないんですよ。なんで彼らがそう言ったかというと、国をひっくり返すためなんです。ブルジョア階級が国家を転覆するために、ブルジョアには権利があって「あなた方の首を斬る権利がある」と言ったの。そこに初めから「責任」の概念がないんです、全然。イギリス人が言うところの権利には、「慣習の中であなたも暮らし私も暮らす」というイギリスの伝統を守る責任がついているんです。それを侵したときに初めて権利が問題になるんです。フランス人の言う権利は、責任の概念がないままに、個人が権利と主張するものが権利なんです。こういう意味で人権、human rightと、前にhumanがついたんですよ。それはイギリス人の伝統的権利とは違うんです。そういう意味でのhuman rightという考え方に僕は反対なんです。人間にはそんな権利なんてないと思うから。僕たちはみんなが合意して、「これはわれわれの慣習的に認められた権利だ」と認められた権利以外の権利はないと思うから。例えば、僕たちは伝統的に「居住の権利」、自分の好きな場所に、日本国内であれば特別な場所を除いて、例えば皇居内とかを除いて、一定の商取引をしてそこの住んでもいいことになったらそこに住んでもいいんです。これは日本人の大きな権利です。明治以前はなかったんです。明治以前は百姓であれ武士であれ、居住の場所を決める権利はなくて、土地に縛られたんです。今でも中国人はないんです。農村戸籍というのがあって、農村の住民は都市で暮らすことができないんです。でも日本人はあるんです。それは明治以来100年間僕たちが享受してきた権利なんです。だからそれは当然他人にも認めたいんです。居住権。それから、言論・集会・結社の権利というのもあって、これも認めたいんです。でも、子どもに「自己決定権」という形でどんな権利でも認める気なんてまったくないんです。全然ないんです。われわれが伝統的に日本国民の権利として、あるいは子どもの権利として認めた以上の権利を認めると、それはアナーキズムです。それは共同体を破壊します。だから子どもの自己決定権を認めません。子どもは伝統的な暮らし方、伝統的というのは別に江戸時代ふうという意味じゃなくて、僕たちが僕たちの共同体を維持するために見つけ出した良い暮らし方を学ぶべきだし、その範囲内で自己決定権があるだけで、無限の、責任と関係のない自己決定権があるというのは、たぶんこの国を混乱に陥れて共産党政権を作ろうとする人たちの陰謀なんでしょうね、たぶん。僕、アドラーの全集を全部読みました。ひとことも「人権」って書いてないんです。否定もしていないけど、まったく書いてないんです。書かないと思う、彼の思想の傾向性からして。責任は山ほど書いてあるけど。
Q
「自由連想」はマインドですか?
A
もちろんです。なんでフロイトがあんなバカなことをしたのか僕よくわかりません。人間のマインドは、ライフスタイルから出てくるたくさんの考え・妄想は、ただの道具なんですね。僕たちが生きていくために自然が作ってくれた道具なんですよ。それは鳥の羽とかライオンの牙と一緒なんですよ。心というのは、別に心だから尊くも何ともないので、生存のための道具の1つにすぎないと思うの。その道具が、例えば鳩の羽が意味があるのは、例えば巣へ帰ろうと思うから意味があるんです。行き先が決まっていて、そこに向かって飛んで行くから意味があるんです。マインドもそうで、僕たちがこの世ですべきことをするなら意味があるんです。そのための道具として使えるなら。でもそのすべきことを見失ってしまったんです。人間は思い上がって、知恵の木の実の食べ過ぎでこの世界征服に乗り出してしまったから、見失ってしまったんです。そうなると、グルグル回っているのは、どんなに良いことを考えていても間違っているんです。およそマインドは今の状態だったら間違っているんです。ちゃんとハートが世界と噛み合わないと。ちゃんと人間の天職を知らないと。人間のあるべき位置を人間の1人1人が自覚しないと、あんまり考えても意味がないと思う。じゃあその自分のあるべき位置、あるべき流れをどうやったら知るかというと、マインドを静かにしないと聞こえないんです。ザアーっと騒いでいるから。そこを静かにさせるためのお稽古に瞑想をしてほしいんです。
Q
賢い子育てをしたいと思います。子育ては三代遡ってと言われますが、母はあまり子育て上手ではなかったかもしれません。なぜなら自分の価値観を押しつけては、私が良い子でなければプンプン怒って食事抜きなどがあったり、子どもから見て信頼できる親ではなかったからです。今、自分が子育てをして、そのときの母の気持ちもわかる気がします。子どもを愛する気持ちが裏目に出てしまっているような気がします。コツを教えてください。
A
アドラー心理学を学ぶ!アドラー心理学を学んで、うまくいく人とうまくいかない人とあって、愛情あってゲンコツ育児(ファシズム)やってる人がアドラーを学ぶと凄い良いママになるんですよ。初めから「あなた方のしたいようにすればいいよ」という人(アナーキズム)はいくら学んでも全然良くならないんですよ。脳卒中という病気があって、いわゆる麻痺が来るんだけど、「突っ張り中風」と「ブラブラ中風」と言うんですけど、硬直性麻痺と弛緩性麻痺、固くなるのと柔らかくなるのと。突っ張ったヤツはリハビリで治るんですけど、力の抜けたヤツは何しても治らないんです。お母さんもそうで、初めから脱力しているお母さんはどうしようもないんですよ。こうやって突っ張っているお母さんは、アドラー心理学を学ぶと絶対良くなるから、「パセージ」の中に「愛と技術」の車輪の絵があって、愛情がある人は技術さえつければ何とかなるんです。だから安心してアドラー心理学を学んでください。絶対良くなります。学校の先生でも、初めからアナーキスト教師でクラスをまとめていく気のない教師はいくらアドラーをやっても悪くなる一方です。凄いファシズム教師で、子どもの襟首つかんで引きずり回した人は凄い良くなるんです。