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スレッドNo.119

論語でジャーナル

17,子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

 先生が言われた。「弁舌爽やかに表情たっぷり。そんな人たちに、いかに本当の人間の乏しいことだろう」。

※浩→「学而篇」の第三章と同文です。「巧言」は巧みな弁舌、「令色」は豊かな表情。お世辞とか媚びとかの訳は誤訳だそうです。むしろお世辞や媚びとわかっているものは大害がない。そう見えないところが曲者だと、貝塚先生。『老子』には「真言は美ならず、美言は真ならず」とあります。『老子』から引用しておきます。↓
 信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。聖人は積まず。既(ことごと)く以って人の為にして己(おの)れ愈々(いよいよ)有し、既く以って人に与えて己れ愈々多し。天の道は利して而して害せず、聖人の道は為して而して争わず。
 現代語訳→信頼に足る言葉には飾り気がなく、耳障りの良い言葉は信頼するに足りない。善人とは多くを語らないもので、おしゃべりな人は善人とは言えない。本当に知恵がある人は物知りではないし、物知りな人に大した知恵はない。そうして「道」を知った聖人は蓄えをせず、人々のために行動して大切なものを手に入れ、人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。天は万物を潤しながらも害を与える事はなく、聖人は他人と争わずに物事を成し遂げる。
 乱世の処世訓としては『老子』は最適です。同じ「老荘思想」といっても、荘子の言う「聖人」は、俗世を離れた“仙人”のようですが、老子にはまだ野心が感じられます。それが無為自然の逆接的人生観です。儒家とは逆転の発想ですが、なお成功を希求しているところがしたたかな人生観でもあり、魅力も感じます。
 ものの言い方ひとつとっても、虚飾は避けるとはいえ、ぶっきらぼうな言い方が良いのではないと思います。対人関係を円滑にする程度の修辞は必要だと思います。野田先生から、かつて、「トピック」「ロジック」「レトリック」ということを教わったことがあります。私は次のような質問を「ネット」でしました。↓
 夏休み中にやった講演会で、2つ後味の悪い思いをしました。
 1つは、中学の職員研修会です。ここでは、学級での生徒の問題行動をどう理解し、どう対処するかについて少しお話しました。最後の質問で、今までずっと問題行動の原因や背景をつぶさに究明することが解決につながると信じてきた。私の話では、原因究明は解決につながらないということだが、それは受け入れられない、というものです。
 私は、ついつい、目的論というのは基本前提の1つで、いわば最初の思い込み。これを押しつける気はありません。1つの提案としてお話したのです。あとになって、どうも論破したような気がして自分で不愉快になりました。
 このように、まず基本前提レベルで抵抗する人への対処法を教えてください。
 もう一つは、幼稚園の職員研修です。「勇気づけのことばがけ」というテーマでワークをしました。その中で、開いた質問を使って情報収集をすると、感情的に巻き込まれることが少なく、クールに対応できるし、子どもの発言を制約することが少ないので、より援助的だとかいうことをお話ししました。ワーク後の食事の時に出た質問に、ある先生が、自分は園児に対してはクールにふるまえるが、我が子になるともっとホットに喜怒哀楽を出し切って、母性愛のままにふるまうとおっしゃいました。
 「ああ、そうお考えですか?」くらいで逃げておいてもよかったのに、食事中というリラックスした雰囲気についつい、母性愛の疑わしさや、親からは愛情のつもりでも子どもには暑苦しいかもと、やはり論破してしまいました。勇気くじきをしたようで、とても後味が悪いのです。

 野田先生からの回答です。↓
 議論というものは、トピックとロジックとレトリックの3つのポイントを意識しておこなわないといけないと思っています。この場合、話題(トピック)は、基本前提に関連することで、これは絶対に譲れない領域です。基本前提以外のトピックであれば、譲れる部分もあります。たとえば、2番目のケースで、
>ある先生が、自分は園児に対してはクールにふるまえるが、我が子になるともっとホットに喜怒哀楽を出し切って、母性愛のままにふるまうとおっしゃいました。
 というようなのは、技法がトピックですから、譲ってもいいと思います。将来、アドラー心理学が「変に技巧的になるよりも、母性愛のままにふるまうほうがいいのだ」と主張するようになる可能性は、ゼロではありません。しかし、アドラー心理学が、「行動の原因が大切だ」と主張するようになる可能性は、まったくゼロです。基本前提だけは、絶対に譲れません。しかし、技法は、譲れないことはないのです。2番目の事例だと、「なるほどね」くらいのことを言って、引き下がるかもしれません。

 1番目のケースでは、目的論がトピックですが、相手は原因論者で、目的論と原因論は、理屈(ロジック)として、相互に排他的ですから、説得するとなると全面撃破になります。トピックとして譲れない上に、ロジックとしても排他的なんです。
 排他的でないロジックもあって、たとえば、ロジャーズふうの「受容と共感」とアドラー心理学の治療関係とは、違う部分もあるけれど共通部分もあって、その共通部分を手がかりに、違う部分を明確にするという方法が可能です。たとえば、「あなたの意見には賛成だが、こういうことも追加したほうがいいのではないか」という言い方(レトリック)が可能です。
ロジャーズ派(以下R):相手の気持ちにもっと共感しないといけないと思います。
アドラー派(以下A):その通りだと思います。ところで、「気持ち」というのは、どういうことでしょうか?
R:感情です。
A:そうですね。思考も「気持ち」だと思いますが、どうでしょうか?
R:まあ、思考も「気持ち」ではあります。
A:「感じたり考えたり」したの結果、「こうしよう」と決めますね。つまり、「意思」をもつわけですね。「意思」も「気持ち」でしょうかね?
R:まあ、そう言えないこともないですね。
A:そうすると、「気持ち」というのは、思考や感情や意思のことなんだ。ところで、相手の思考や感情や意思を知るためには、どうすればいいんでしょうかね?
R:傾聴すればいいんです。
A:そうですね、まったく賛成です。

 一番目のケースでは、こんなふうに、共通部分を手がかりにすることができませんので、全面対決になってしまいます。もし、全面対決しないとすれば、「双方の主張は、意見にすぎず、事実であるとはかぎらない」というレトリック、すなわち、「私はこんなふうに考えているのですが、あなたはそうお考えなのですね」式のレトリックしかないのではないかと思います。
 全面対決も、場合によっては悪くないと思います。その場合には、相手はどうせ降伏しないので、他の聴衆をこちらに引き寄せることを目的に、厳密なロジックと華やかなレトリック(たとえば、「たとえ話」とか、相手の自己矛盾を突くとか)でもって攻撃します。講演会の後の質問や、講座の中での質問などで、私はしばしば攻撃的にこの方法を使っています。敵も増えますが、味方も増えます。敵と味方と、どちらがより増えるかは、むずかしい手加減がありそうですね。私は、敵を増やすのがうますぎるようです。昔、@niftyの心理学フォーラムで、フロイト派と論戦したことがありますが、
フロイト派:川を飛び越そうとしても、岸にパンツのゴムが引っかかっていて、引き戻されてしまう。
私:パンツを脱げばいいじゃないか。

 と、ものすごいレトリックを使って、「固着」というアイデアについて論争したことがあります。敵は今でもフロイト派ですが、アドラーのファンは、この論戦でずいぶん増えたと思います。
 東日本地方会である人が、「これまでは自分の感情に気がつかないままで、言い方や声の調子をやさしくしていたので、結局は芝居しているだけで、本当の自分じゃなくて、だんだん苦しくなった。今は、感情に気がつくようになって、自然にふるまえるようになったので、毎日楽しい」という意味のことをおっしゃっていました。
 アドラー心理学の育児法への反発の多くが、「そんなの、人為的で、自然じゃないから、いやだ」というものです。一方、フロイト派のウィニコットが、good enough mother ということを言って、「自然のままの母親」を礼賛し、それに多くの母親が共感をおぼえています。
 しかし、「自然」というのは、練習の末に身につくものだと思います。正しく学ぶと第2の天性となり、本人にとってきわめて「自然な」動きになると思います。
 つまり、「母性愛」論者が怖れているのは、「不自然な育児」だと思います。私も「不自然な育児」には反対です。しかも、「母性愛」には反対ではありません。問題は、「野生の母性愛」は原始時代の生活に向けて作られているのです。それを、現代生活に向いた「現代の母性愛」に育てなければならないのです。
 そこで、1)「母性愛」=「自然な育児」と置き換えます。2)「共同体感覚は生まれながらには可能性であるにすぎず、意識的に育成しなければならない」というアドラーの言葉を、「母性愛は生まれながらの可能性であるにすぎず、意識的に育成しなければならない」と置き換えます。3)相手がこれに賛成してくれれば、「では、どうすれば、原始的な可能性でしかない母性愛を、現代的な母性行動として実現させることができるでしょうか?」と問いかけることができて、相手をあまり怒らせないで、アドラー心理学の主張に耳を傾けてもらえそうに思います。

 ともあれ、私は、議論するときには、トピックとロジックとレトリックの3つの点を点検して、喧嘩するのかしないのかを決めています。しかも、かなりの喧嘩好きです。心理臨床学会の発表で喧嘩しないように気をつけなければ。
 たしかに、大森さんがなさった「論理的結末」風のレトリックもありえます。ドライカースはそれを愛用して、結局、味方よりも敵を多く作ったように思います。私は、相手のキーワードはそのまま認めて、その意味をすり替えるという、より心理療法家ふうのレトリックを好みますが、さて、これで嫌われなくてすむかどうか。

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