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スレッドNo.121

論語でジャーナル

18,子曰く、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。

 先生が言われた。「混合色の紫が、原色の朱の美しさを圧倒することを私は憎む。扇情的な鄭の音楽が調和の取れた古典音楽を混乱させることを私は憎む。まことしやか(小利口)な表面だけの弁舌が、国家を転覆させることを私は憎む」。

※浩→中国の古代では、赤などの原色を「正色」、紫などの混合色を「間色」とし、正色を尊びました。孔子は、移りゆく時代を感覚的に捉えて、さびしく挽歌を奏でています。新しいだけのまやかしが、厳格な調和を持った古典の世界をつぶしていくのを見るに堪えなかったのでしょう。過去への復帰を唱えると、『老子』になっていまいますが、孔子も「温故知新」と言っています。老子の場合はもっと極端に「原始」まで遡り原初に復帰することが「道」の実践であると考えました。私は、公私苦難の時節に『老子』を読み耽り、その逆説的人生観を試みることで救われた体験があります。『老子』に出会うきっかけを与えてくれたのは、備前高校時代に親交のあった窯業科(のちセラミック科)の若手教師・藤井良勝先生です。大阪出身の方で、やがて大阪府に転出されましたが、その後どうなさっているでしょう。もちろん、現在は定年退職されているはずです。当時、備前高校は普通科5クラスと工業科4クラスが合体する大規模校でした。ただ、普通科は全県学区で、隣町の邑久町(現・瀬戸内市)の邑久高校が学区制で、大学進学にはこちらのほうが向いていて、備前市からも進学希望者の多くが邑久高校へ行き、備前高校普通科は一段下に見られていました。いくつか事件もありましたが、前にも言いましたように職員の結束は強く、和気藹々とした職場でしたから勤め心地は抜群でした。窯業科(現・セラミック科)にはいわゆる“猛者(もさ)”とされそうな連中もけっこういて、授業にも一苦労しました。その窯業科の若き教師・藤井先生は、春風駘蕩という四字熟語がぴったりの好男子でした。校長がときどき全教室を巡視していました。やさしい藤井先生の授業は生徒たちもリラックスしていてか、けっこう騒がしかったようです。あるとき、廊下を校長が近づいてくるのに気づいた藤井先生は、生徒に改まって言いました。「頼む、静かにしてくれ。校長に見られたらわしがクビになる」と。すると、それまで騒がしかった教室が、瞬く間にシーンと鎮まりました。この先生が、生徒たちに愛されていることはこれでよくわかります。この先生が、『老子』を愛読されていて、私にも紹介してくれました。それ以後、私の愛読書になりました。ところが、ずーーーっとのちになって、野田先生から、老荘思想は土着思想だと教わって、ガーンとショックを受けました。孔子の思想はクリエイティブで、その土着化したものが老荘だとおっしゃるのです。その論拠は、「万物の根源」を認めているからです。老子は「万物の根源は道である」と説きます。それで、不本意ながらずっと遠ざけていましたが、「道」の解釈はさておいて、後編の「徳」の側には学ぶべきことが多々あります。その逆接的な“したたかな”生き方が、乱世を生き抜くには向いているのです。今の世の中は、どう見ても「乱世」です。

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