論語でジャーナル
23,子路曰く、君子勇を尚(たっと)ぶか。子曰く、君子義を以て上(かみ)と為す。君子勇有りて義なければ乱を為す。小人勇有りて義なければ盗を為す。
子路がおたずねした。「君子は勇気を尊重しますか?」。先生が言われた。「君子は勇気よりも正義を第一にする。君子に勇気だけがあって正義に欠けているときは内乱を起こす。小人に勇気だけがあって正義が欠けていると、盗賊を働く」。
※浩→ここで言う「君子」は治者つまり貴族のことで、「小人」は被治者つまり庶民を指しています。勇気第一と讃えられた直情的な子路に対して、勇気・腕力だけが抜きん出て強くなり過ぎると、君子でも小人でも道を踏み誤る恐れがあると訓戒を与えています。
たびたび登場した「勇気」です。プラトンの「四元徳」は「知恵・勇気・節制・正義」プラトンは「主知主義」でしたから、何よりも「知恵」が大事です。二頭立ての馬車に喩えて、御者が「知恵」、二頭の馬が「勇気」と「節制」です。御者が二頭の馬をバランス良く制御して馬車を走らせるとき、「正義」が実現する、つまり、馬車は正しく走るということでした。孔子は、「正義」を第一としていて少しニュアンスが違うようです。アリストテレスはもう少し詳しく説明します。まず「徳」に2種類あり。「知性的徳」と「習性的(倫理的)徳」です。「知性的徳」に「知恵」と「思慮」があります。「知恵」は最も理想とする「観想」を楽しみます。「思慮」は「感情・欲望」を“中庸”であるように指導します。そうして「勇気」や「正義」や「友愛」などの「習性的(倫理的)徳」が実現します。「勇気(勇敢)」について、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』では次のように書かれています。↓
勇敢は「恐怖」ならびに「平然」に関しての中庸であることはすでに明らかにされた。ところで、われわれの恐れるところのものは、いうまでもなく、恐ろしいことがらであり、おそろしいことがらとは無条件的にいえばもろもろの悪しきことがらである。ひとびとが恐怖を「もろもろの悪しきことがらの予測」と定義している所以(ゆえん)である。われわれは、だから、あらゆる悪、たとえば不評・貧乏・病気・無友・死のごときを恐れるのであるが、勇敢な人間という場合、必ずしもこれらすべての悪しきことがらにかかわるものとは考えられない。
なぜかというと、ことがらによっては、恐れるのが至当であり、またうるわしいことであるような、そして恐れないのは醜悪であるようなものもある。たとえば不評のごとき。これを恐れる人はよろしきひと、恥を知るひとであり、恐れないひとは恥知らずである。かようなひとを目して勇敢だと一部のひとびとのいうのは語の転用に基づく。けだし、かかる人間も勇敢なひとと何らかの類似を有してはいる。勇敢な人は恐れないひとなのであるから──。
また、貧乏とか病気とか、総じておよそ自己の悪徳から生ぜず、自分自身に基づかないところのものは、思うに、恐るべきでないことがらである。これらに関して恐れるところがないからといって、かかるひとが勇敢なひとだということになるわけではない。われわれは類似に基づいてかかるひとをも勇敢だということになるわけではない。われわれは類似に基づいてかかるひとをも勇敢だといいはするにしても──。実際、戦いの危険のなかでは怯懦(きょうだ)でありながら、寛厚な人間で、金銭の喪失に対して全く平然としているといったようなひとびとも存在するのである。…………かくて、然るべきことがらを、然るべき目的のために、また然るべき仕方で、然るべきときに耐えかつ恐れるひと、またこれに準ずるごとき仕方で平然たるひとが勇敢なひとにほかならない。
『ニコマコス倫理学』は大学で学び、私も在職中には、「倫理」や「現代社会」で生徒に教えてもきましたが、今、岩波文庫のページをめくると、あちこち、以前は難解だったところがすんなり理解できることに驚きます。
もちろんアドラー心理学では、「勇気」「勇気づけ」は基本中の基本概念です、