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スレッドNo.139

論語でジャーナル

第十八 微子篇

☆篇のはじめに
 この篇は、乱世を逃れる隠士を主人公とする物語が中心になっています。孔子は、ここでは、いくら努力しても効果が上がらないに決まっている政治運動に身を粉にして働いている、おめでたい人物として戯画化されています。無為の生活を至上とする老子学派の影響が濃厚に見られます。しかし、春秋時代の末期の中国は、内乱と戦争に明け暮れ、貪欲な豪族と、それを囲む権力亡者の佞臣(ねいしん)とによって、醜悪な権力闘争が繰り返されていました。この乱世に絶望して、政治の舞台から逃れて隠士の生活を送る賢人がたくさん出たました。乱世において、一身の降伏をはかるには、隠士の生活が最も適しているからでしょう。
 そういえば、古代ギリシャでも、ソクラテスやアリストテレスの「ポリス」時代には、その“善き市民”のあり方が倫理の規範でした。アレクサンダー大王によるマケドニア大帝国の時代になって、ポリスが崩れると、エピクロス派やストア派など、個人の安心立命を主とする哲学が登場します。そのエピクロスも「隠れて生きよ」と、隠遁生活を提唱していました。
 戦国時代の儒家の教団は、道家の無為思想を批判することで、自らの権威を保持しようとしたのでしょう。(←貝塚先生の解説)

1,微子(びし)はこれを去り、箕子(きし)はこれが奴(ど)と為り、比干(ひかん)は諌(いさ)めて死す。孔子曰く、殷に三仁あり。

 (殷王朝の末期にあたって)微子は殷国から逃げ出し、箕子は奴隷に身と落とし、比干は(殷の)紂王を諌めたために死罪となった。孔子がこの三人を評して言われた。「殷には三人の仁者がいた」。

※浩→この「微子篇」の特徴はまず、「子曰く」で始まるものが一条もないことです。孔子の思想を直接記録していなくて、孔子の周辺の記述をあつめたものである点が、この篇の特殊性です。
 「微子」の「微」は国の名で、「子」は爵位だそうです。殷の暴君・紂王の兄ですが、紂王の悪逆非道な政治に愛想を尽かして殷から逃げ出してしまいました。微子は、殷が滅んで周の時代になってから宋国の君主となります。「箕子」は紂王の叔父ですが、紂王の悪政を諌めて殺されかけたので、狂人を装って逃げ出し、奴隷の中に紛れ込んで一命を取り留めました。のちに周の武王によって朝鮮に封じられます。比干も紂王の叔父でしたが、正義感が強く知性に優れていた比干は、紂王を必死に諌めて怒りを買い、遂に処刑されてしました。三人の忠臣、あるいは命を犠牲にし、あるいはしなかったのですが、孔子はいずれも仁者であると評価しています。現実の政治から隠遁した微子と箕子の評価には、道家の「隠棲・無為自然」が影響しているのでしょう。
 老荘思想を好んだ私には、儒家に申し訳ないのですが、魅力を感じる「微子篇」です。「泰伯篇」に、「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば即ち見はれ道なければ則ち隠る」とありました。これについては、発見があります。「実験論語処世談」(渋沢栄一)です↓
 次に「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば即ち見はれ道なければ則ち隠る」といふのは、人の去就について採るべき態度を明かにされたものであるが、これ等字義から見ると、周の封建時代には難なく適用できるのであるが、我が国の如きに向つては俄にその儘当て嵌めるといふ訳には行かぬかも知れぬ。
 危邦といふのは将に乱れ亡びんとする国であつて、そのやうな国には足を踏入れるなといはれるのであるが、日本等に於て国民たるものは、国家が危くなつたからといつて足を入れないで逃げ出す等といふことは到底有り得べからざること、又、許すべからざることである。若し不幸にして国家の危急存亡にでも関するといふやうな時でもあつたならば、それこそ一命を賭してもその回復再生に努めねばならぬ。これは字義通りその儘では一寸日本に応用でき兼ねるのである。然し恐らく孔子の意志はそこには有るまいと思ふ。同じ論語の中に子路の問に答へて、「今の成人とは、何ぞ必ずしも然らん。利を見て義を思ひ危きを見て命を授け」と孔子が言はれて居る。これに依つて見れば、既に自身の仕へて居る国が危くなつた時には、一命をも授けるのが即ち成人であり、君子であるといつて居られるのである。日本が危くなつたからといつて、亜米利加に籍を移す等といふことは、断じて許すことができぬのである。
 然しこれは孔子が、人といふことに重きを置かれて言はれた言葉であつて、周のやうに封建時代には止むを得ぬことである。互に諸侯が覇を唱へんとして居る時で、真に安んじて一命を托し兼ねるといふ時勢であつて見れば、先づ成る可く危きに近づかないで己れの身を全うすることが君子としては正しい道であるとしたのである。然し我が国に於てはそんな消極的のことは許されぬ。若し危邦乱邦であつたならば、自ら陣頭に馬を進めて国家の改造善導に努めねばならぬ。そこで私の考へとしては、一歩を進めて積極的に常に国家の為に努め、危邦たることから避けしめねばならぬとするのである。
 天下道有れば則ち見はれ、道無ければ則ち隠る、とは上に述べた如く危邦乱邦があつて何処でも見はれるといふ訳には行かぬが、天下は広いもので、若し何れか道が具つて居る国があれば宜しく行つて天下に見はれるがよいといはれたのである。然し何程乱邦であり危邦であつたにしても、その人が真に賢者であり偉人であつたならば、その人自身が見はれまいとしても必らず世間一般の尊敬が向けられ、知らず識らずの中に天下に名を為し見はれて来るのであつて、孔子自身が其通りである。孔子自身は乱邦であれば、格別自ら求めて見はれようとされた訳でもないが、自然と周囲のもの、後世のものが、賢者として崇敬の念を払ひ、何時とはなしに見はれて了はれたのである。
 が然し孔子の如きは特に優れた人であつたから勢ひさうであつたのであるが、それ迄に行かぬ人は乱邦に居ても他から自然と見はして呉れるといふ訳には行かず、さういふ時に臨めば却てその身を傷けるやうになるから、本当に道があればこれに依つて名を為すもよいが、道の行はれぬ所には行かないで、寧ろ隠れてその身を全うするに如ずかと戒められたのである。徒らに危きに近づいて遂にその身をも亡し、然も何等世の中に貢献する所もないといふのは、如何にも君子たるものの恥とせなければならぬ所である。今日の世の中には之れと等しいことはよくあることで、孔子のこの戒めは今も昔も応用できるのである。

 ・・・うーん。NHKの大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢が『論語』を大切にしていたことを知りましたが、さすがです。明治時代の語り方ですから、繰り返して読まないと理解しにくいですが、「国を思う気迫」が感じられて、今のアナーキズムに堕した社会にあって、身が震える思いがします。

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