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スレッドNo.145

論語でジャーナル

4,斉人(せいひと)、女楽(じょがく)を帰(おく)る。季桓子(きかんし)これを受く。三日朝(ちょう)せず。孔子行(さ)る。

 斉国が魯国に女性の歌舞楽団を贈った。(家老の)季桓氏はこれを受け容れて、(その美しさと素晴らしさに魅了されて)三日間朝会に出席しなかった(政務を行わなかった)。孔子は絶望して魯国を去った。

※浩→魯の定公十四年、五十六歳の孔子は、司法担当の国務大臣として、一番家老の季孫斯(きそんし)などと国政にたずさわっていました。隣国の斉国は、孔子によって魯の国政が振るうのを妬んで、女歌舞伎八十人に飾り馬三十駟(くみ)を添えて魯に贈りました。それに魅了されて政治を忘れてしまった季桓氏を見て、孔子は魯国の将来を見限ってしまったのです。このエピソードが史実であるか否かはわからないそうですが、孔子は為政者が色(女性)や欲(金銭)に溺れて政務をおざなりにすることを最大の不徳と考えていたことを、この伝説が説いています。
 「女歌舞伎」というと、日本では「出雲の阿国(おくに)」です。出雲の阿国は生没年未詳ですが、1603(慶長8)年、京都四条河原で歌舞伎踊りを演じ、歌舞伎を始めた人物だと言われています。出雲大社の巫女(みこ)だと称していたそうですが、詳しいことはわかりません。当時の芸能の多くは、河原や寺社の境内に作られた仮設舞台で演じられて、興行が終わると舞台は取り壊されていました。阿国は、京都の北野神社境内に自分専用の舞台を作って踊ったそうです。1607(慶長12)年には、江戸城で踊ったという記録も残っているそうです。「歌舞伎を始めた人物」として数々の伝説が生まれました。阿国のような女性芸人が歌舞伎踊りを始めて女歌舞伎が生まれ、それが現在の歌舞伎につながっています。その後、女歌舞伎は幕府によって禁止されて、男性の役者が演じるようになり、今日のような“女形”役者ができます。現在の男女同権の世の中で、お相撲と歌舞伎はいまだに“女人禁制”のままです。もっとも、宝塚歌劇は男子禁制ですが。その宝塚歌劇は、目下大騒動です。夢を売るはずのこの歌劇団であらまじき悪習が存在したなんて、ファンへの裏切り行動だと思います。一方、歌舞伎のほうは、昭和の名優がほとんど去り、若手の躍進がめざましいですが、こちらもやはり猿之助事件でもやもやしています。ここでもアドラー心理学の教えにより、ネガティブな面でなくポジティブな面に注目していきたいです。大事な日本の文化ですから、絶滅させるわけにはいきません。

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