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スレッドNo.149

論語でジャーナル

6,長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)、藕(ぐう)して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津(しん)を問わしむ。長沮曰く、夫(か)の輿(よ)を執る者は誰(たれ)と為す。子路曰く、孔丘と為す。曰く、これ魯の孔丘か。対(こた)えて曰く、是(これ)なり。曰く、是ならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺曰く、子は誰と為す。曰く、仲由と為す。曰く、是魯の孔丘の徒か。対えて曰く、然り。曰く、滔滔(とうとう)たる者、天下皆(みな)是なり。而して誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且つ而(なんじ)その人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈(あに)世を辟くるの士に従うに若(し)かんや。優して輟(や)めず。子路行きて以て告ぐ。夫子憮然として曰く、鳥獣は与(とも)に群を同じくすべからず。吾斯(こ)の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あるときは、丘は与(も)って易(か)えざるなり。

 長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)とが並んで耕していた。孔子がそこを通りかかって、子路に渡し場をたずねさせた。長沮が聞いた。「あの馬車の手綱をとっている人は誰だ?」。子路は答えた。「孔丘という人です」。「魯の孔丘だね」「そうです」。「その人なら渡し場を知っているはずだよ」。長沮が答えないので、今度は桀溺に聞いてみた。桀溺は言った。「あなたは誰ですか?」。「仲由という者です」。「魯の孔丘の弟子ですか?」。「そうです」。桀溺は言った。「ひたひたと洪水が押し寄せるように、天下は一面こんなになってしまった。いったい君は誰と一緒に天下を治めるつもりかね。君は人を選り好みして、悪人を避け善人を選ぼうとするああした人物と一緒にいるよりも、世の中全体、時代全体、人間全体を逃避する人間と一緒にいるほうが、いいではないか」。そう言いながら、播いた種に土をかぶせる手をやめなかった。子路はそこを立ち去って、彼らの言葉を孔子に伝えた。先生は憮然として言われた。「鳥や獣とは仲間になれないものだ。私が人間の仲間からはずれて、いったい誰と一緒に暮らすことができよう。天下に正しい秩序が行われているのなら、私は何も政治改革に手をつける必要がないではないか」。

※浩→「長沮と桀溺」は誰か有名な賢者が変名して姿を隠しているのでしょう。「沮」は沼地。「溺」は人間の排泄物。どちらも農業に関係していて、農民らしい名で呼ばれている。「藕(ぐう)して耕す」は、鋤で土地を耕すのに二人がひと組になり、ひとりが鋤を打ち込むと、他のひとりがそれをひっくり返して土をはね上げる農法。「輿(よ)を執る」は、御者をしていた子路が下車したので、孔子が代わって馬の手綱をとっていたことを示す。「人を辟(さ)くる」は、孔子が政治運動をしながら、政治家の人物を批評して選り好みをしているのを皮肉っている。「世を辟くる」は、特定の人間が悪いのではなく、世の中、社会が悪いのだからそれから逃避することです。
 やはり『荘子』の寓話を思わせます。孔子も子路も戯画化されています。憮然として語った孔子の言葉は結局言い訳で、すっかり二人の隠者に皮肉られて、この勝負は隠者の勝ちと見られます。「(人為(政治)を否定して世俗を捨てるように説く長沮と桀溺は、人間の徳と行為によって天下を安定させようとする儒家の教えの対極にある人物として描かれています。無為自然を史上の原理と考える「道家(老荘思想)」と人為的な徳治主義」を理想と考える「儒家(儒教の政治哲学)」を対比させているのでしょう。『論語』なのに、道家の隠者の勝ちという老荘思想が評価されていて、ますます『荘子』へ誘われているように感じてきます。

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