MENU
64,359

スレッドNo.157

論語でジャーナル

10,周公、魯公に謂(い)いて曰く、君子はその親(しん)を施(す)てず、大臣をして以(もち)いられざるを怨ましめず、故旧(こきゅう)大故(たいこ)なければ、則ち棄てざるなり。一人(いちにん)に備わらんことを求むることなかれ。

 周公が(魯に赴く)わが子の伯禽(はくきん)に向かって言われた。「君子はその親族のことを忘れず、大臣であまり用いられない者も、怨むことのないようにし、古い縁故のある人物は大きな過ちがなければ見捨てはいけない。一人の人間に完全を求めてはいけない」。

※浩→周公は、孔子が理想と仰ぐ周公旦です。文王の子、武王の弟として、周王朝創業の聖人の1人であるとともに、諸侯としては魯の国の最初の君主です。魯公とは、その子・伯禽(はくきん)で、父の周公は中央の政務に忙しかったため、魯に国入りしないで、子が魯公として国入りしました。父は子の国入りに際し、君主たる者の戒めとして語った言葉です。
 親族を大切にと言うのは、周の封建主義は王の親族を各地を治める諸侯として派遣していたから当然です。日本の中世~近世には、その親族による下剋上が多発しました。源氏の鎌倉幕府は、創始者頼朝の妻北条政子の実家・北条家に乗っ取られました。室町幕府ができるときの、足利尊氏兄弟の争いもすさまじかったです。ドラマの「太平記」で見ましたが、弟の最期は、兄・尊氏が差し入れた毒入りまんじゅうを食べて死にました。徳川三代将軍・家光とその弟の争いも激しかったです。家光は乳母の春日局が育てました。弟の徳川忠長(幼名=国松)は実母のお江与(またはお江、二大将軍・秀忠の妻、織田信長の妹・お市の方の次女、豊臣秀吉の側室で秀頼の母・淀殿の妹)が育てました。秀忠夫妻は才智に恵まれた忠長を寵愛し、次期将軍になるとの風評がありました。それに危機感をいだいた家光の乳母・春日局 は、駿府在住の家康に嘆願して、家康の指示で家光が世子(お世継ぎ)と決定されます。忠長は、甲斐国領主~駿府藩主になり駿河大納言と称されました。その後忠長の行動が荒れ、家臣を手討ちにしたり、仕えていた少女を闘犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始めて、江戸で頻発した辻斬りも忠長の仕業であると噂されたしりました。秀忠は忠長を家老・鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させます。秀忠の死後、親政を行っていた家光が重病に陥ると、世間には忠長与党の大名が反乱を起こそうとしているという噂が飛び交い、危機感をいだいた家光は病気回復後、忠長を安藤重長の領地・上野高崎に移し、阿部重次を派遣して自害を命じました。自害の場所は高崎の大進寺です。NHKの大河ドラマ「春日局」でも忠長卿の最期は丁寧に描かれていました。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top