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スレッドNo.165

論語でジャーナル

3,子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰わく、子夏は何をか云(い)える。対(こた)えて曰わく、子夏曰わく、可なる者はこれに与(くみ)し、その不可なる者はこれを距(こば)めと。子張曰わく、吾が聞ける所に異なり。君子は賢を尊びて衆を容(い)れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむ、我の大賢ならんか、人に於いて何の容れられざる所あらん。我の不賢ならんか、人将(まさ)に我を距まんとす。これを如何(いかん)ぞそれ人を距まんや。

 子夏の門人が、人との交わる心得を子張にたずねた。子張は言った。「子夏は何と言っているのかね?」。子夏の門人はかしこまって答えた。「子夏は、交際していい者とは仲間になるし、交際してはいけない者は拒絶するとおっしゃっています」。子張が言った。「それは私が(これまで)孔先生から聞いた話とは違う。君子は賢者を尊敬するが、同時に多くに人を包容し、善人を賞賛しながら、(善行を行う)能力の足りない者に同情する。仮に自分自身が大賢人であるとするならば、その対人関係は、どこへ行っても不包容ということがあろうか。すべてを包容しすべてから包容される。逆にもし、こちらが不賢者であるならば、相手がまずこちらを拒絶するであろう。こちらから人を拒絶するということが、どうして起ころうか」。

※浩→明けましておめでとうございます。辰年がスタートしました。新年にふさわしく(?)交友関係についての問答です。
 子夏の朋友に対する態度は、孔子の「忠信に主(した)しみ、己れに如(し)かざるものを友とするなかれ」の趣旨に従っていますが、もし人が自分より優れた人を友としようとすると、相手もまた自分より優れた人を友とするでしょうから、その関係は成立しえないことになります。人が内省的で自分への評価が控え目で、他人の長所を見て高く評価する。他人の中に自分より優れた点を見出してその美点を学び、その人を友とするということではじめていわゆる「君子の交わり」が成立すると言えるでしょう。子夏の「可なる者はこれを与し、不可なる者はこれを拒め」という単純な是々非々主義では、友人関係を社会関係として成立することは難しい、と貝塚先生は述べられます。子夏はただ理性的に朋友関係を求める説で、子張は心情に根拠を置いていて、両者の説は対立します。創始者が没して弟子の時代になって学派の対立が生じています。どの思想にもあります。キリスト教も仏教もそうでした。わがアドラー心理学もそうなるのでしょうか。私たちのは創始者アドラーからルドルフ・ドライカース~バーナード・シャルマン~野田俊作先生という流れで学んでいます。ドライカースがアメリカへ亡命して、アメリカ学派ができましたが、ドイツ学派はもっともっとフロイト心理学に近いそうです。アメリカでもドライカースやシャルマンのシカゴとニューヨークは違うそうです。他派はともかく、私たちは野田先生から伝えられた教えを「純正アドラー心理学」としてとらえて学び実践しています。が、他派への寛容さも忘れてはいけないと思います。そうでないと、昨日の「土着思想」に陥っていまいます。フロムの「創造的精神は常に批判的である」というフレーズを忘れないようにしないといけません。

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