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スレッドNo.181

暴力・いじわるなどへの侵入的でない対応は?

Q372
 小中学校の先生は、暴力・いじわるなどの不適切な行動があった場合、他の生徒を守る必要性、秩序を守る必要性があって、その場で指摘・注意をせざるをえないと思うのですが(野田:思いませんけど、この人は思うんですね)、いかにして侵入的にならずに、その生徒と関係を作っていけばいいのでしょうか?

A372
 お巡りさんは、道ばたで人を殴っているおっちゃんがいたら、当然止めに入るでしょう。「ちょっと待ちや」と言って。「何があったんやねん」と、当然聞きます。人間が他人に暴力をふるうのは、職業犯罪者でヤクザのおっちゃんなら、いきなり暴力をふるうこともあるでしょうけれど、素人衆が暴力をふるうと言うことは、何かいきさつがあったんです。やむにやまれず暴力をふるわざるをえないいきさつが何かあったんだと、普通、考えませんか?学校でも、札付きの非行少年で暴力をふるうことが喜びになっている子がいたら、話は別ですが、そうでなくて、ごく普通の生徒が喧嘩して、一方が一方を殴っているところへ、先生が通りかかったら、「まあ、ちょっと待ちーや。何があったか話してよ」と言いませんか?それが正しい介入だと思う。暴力をふるっているほうが「悪」、ふるわれているほうが「かわいそうな被害者」と決めつけるのが「裁く」ということです。それをやるから、あと、話がうまくいかない。最初から、相談的人間関係が成り立っていない。暴力をふるうということの心理的プロセスを考えてほしい。例えば、ある生徒が別の生徒を殴るのでも、夫が妻を殴るのでも、何もないのにいきなり、「ただいま-」にボーンと殴ったりしない。絶対にいきさつがある。いわゆるDVでも、夫には夫の言い分があります。人間にはその人なりの論理がある。その人なりに正しい理屈がある。その理屈を聞こうという姿勢がなかったら関係が持てないから、援助的になれない。いじめであれ、暴力であれ、今、間違った介入の仕方をしている。大人の子どもに対する虐待でも、夫の妻に対する暴力でも、最初から、暴力をふるうほうが悪と決めてから話が始まるでしょう。それでは絶対に解決しない。親が子どもを殴るのでも、それなりの理屈があって殴っていて、その人の持っている目標は、“キラキラした理想”なんです。その人にとっては良いことなんです。価値的にすぐれたことなんです。道徳的に正しいことなんです。ただそれを実現するのに、たまたま誤った方法を使っている。だからその「道徳的に正しいこと」は何なのか聞かせてもらわないといけない。「今やっている方法で、その目的が達成できると思いますか?」と聞かないといけない。一番の問題点は、今のあまりにも強い暴力アレルギーです。暴力アレルギーが結局暴力を再生産しているというパラドックスがあると思う。暴力はいけないと最初から決めてしまわないほうがいいと思う。暴力をふるわないといけないやむをえない事情があったんだと思ったほうが、賢いと思う。昔、裁判所に勤めていたとき、今で言うDVね、夫が妻を殴っているというケース、ときどき妻が夫を殴っているというケースもありましたが、そういうのをたくさん見ました。裁判所では調停員という人がいて、夫婦の関係調整に立ち会うんですが、暴力事件なんかあると、「野田先生立ち会いしてください。頭がおかしいかもしれんから」と言われて、「はいはい」と聞いていました。つくづく思いますが、やっぱい暴力をふるわれる妻は、暴力をふるわれるだけのことはある。あのおばはんを黙らせるには、殴るしかないと、旦那さんのほうに同情したりする。だから、いきさつはあるんです。「奥さん、その言い方したら、殴られますよ」って、助言をせざるをえないところがある。「もうちょっとものの言い方を工夫したほうがいいんじゃないですか」と。(回答・野田俊作先生)

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