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スレッドNo.184

論語でジャーナル

12,子游曰わく、子夏の門人小子(しょうし)、酒掃(さいそう)応対進退に当たりては則ち可なり。抑(そもそ)も末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し、これを如何(いかん)。子夏これを聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は孰(いず)れをか先ず伝え、孰れをか後に倦(う)まん(/倦えん=つたえん)。諸(これ)を草木の区して以て別あるに譬(たと)うべし。君子の道は焉んぞ誣(し)うべけんや。始め有り卒(お)わり有る者は、それ唯(た)だ聖人か。

 子游が言った、「子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や客の応対、儀式の動作については優れている。しかし、それらは末梢的なことで、根本的なことは何もできない。これは、どんなものだろうか?」。子夏はそれを伝え聞いて言った。「ああ(嘆息)、子游は間違っている。君子の道は何を先に教えて何を後に(いやというほど)教えるか、ちゃんと順序がある(見分けることだ)。それは、ちょうど草木の種類によって育て方が違うようなものである。君子の道もどうして同じ教え方をすべての人に押し付けられようか。始めから終わりまで同じ一つのやり方ができるのは、(君子を越える)聖人だけだろうね(初歩は教育の課程として必須なのである)」。

※浩→「酒掃(さいそう)」は拭き掃除。「言遊」は子遊、本名・言偃。「倦」を吉川先生は「うまん」(いやというほど教える)、貝塚先生は「つたえん」と読まれる。「誣(し)う」は吉川先生は「ごまかす」と、貝塚先生は「同じことを押しつける」と読まれる。
 子游と子夏の学派の対立から生まれる相互の批判がここに現れています。孔子の教えは偉大で、いろいろな方向を抱擁していました。孔子の死後、弟子たちは、師のいずれかの方向を一方的に延長したために、早くも摩擦が起こります。それがのちに知識と経験を重んずる漢唐学派と、実践と直観を重んずる宋明学派とに分岐するきっかけであったと言われます。
 偉大なリーダーが亡くなって弟子の時代になると、学派の分裂や対立がどこでも生じます。キリスト教では、「正統」と「異端」などと呼ばれました。これはローマ帝国末期の教父時代のことでした。私は大学の卒業論文に「アウグスティヌス」を選びましたので、そのあたりのことを自力で少し学びました。もちろんカトリック教会に大いに依存しましたが。1960年の大学1年生のとき、縁があって洗礼を受けました。洗礼名はなんと「アントニオ」なんですよ。パドヴァの聖アントニオが由来です。この聖人の祝日が6月13日で私の誕生日の19日に近いこともあって、とても親しみを感じまていした。洗礼を施してくださったのはヴァン・デ・ワーレ神父様で、ベルギー出身の包容力の大きい温かみのあふれる神父様でした。日本語がとてもお上手でした。でも、当時、祈禱文はすべてラテン語のままで、私たちは意味もよくわからないまま、祈禱書のルビをそのまま読んでいました。今でも覚えています。ドミヌス・ヴォビスクム。エト・クム・スピリト・トゥオ。意味は、「主はあたたとともに」「また司祭とともに」という、司祭と信者の応答です。大学卒業後は各地を歴任したため教会から遠ざかり、次第に信仰からも離れていきました。 アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アフラース)に生まれました。キリスト教に回心する前は、一時期、善悪二元論のマニ教を信奉していました。キケロの『ホルテンシウス』を読んで哲学に関心を持ち、マニ教と距離を置くようになります。その後、ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知って、ますますマニ教に幻滅を感じます。ローマ帝国の首都・ローマに383年に行き、384年には、宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をしているうち、ミラノの司教アンブロジウスと母モニカの影響で、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受けて、キリスト教徒となります。それまで頽廃的な生活にも陥っていましたが、受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(取って読め)」という声を聞いて、近くにあったパウロの書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したと言われます。387年、母モニカがオスティアで没したのちアフリカに帰って、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送りました。このとき彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなりました(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同してできた修道会)。391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、さらに396年には司教に選出され、そのとき初めて聖職者としての叙階を受けます。410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対して、天地創造以来の「神の国」と「地の国」の二つの国の歴史による普遍史の大著『神の国』によって応えます。これはアウグスティヌスの後期を代表する著作です。430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人は8月28日にこの世を去ります。彼の思想は、その後のローマ・カトリック教の発展の礎となりました。
 アドラー心理学でも派閥があるようですが、近年は偉大なリーダー・野田俊作先生のご逝去により、今後アドラー心理学会などで分裂対立が起こらないことを祈りつつ、日々の学びと実践につとめていきます。

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