論語でジャーナル
18,曾子曰わく、吾(われ)諸(これ)を夫子(ふうし)に聞けり、孟荘子の孝や、その他は能(よ)くすべきなり。その父の臣と父の政とを改めざるは、是(これ)能くし難きなり。
曾子が言われた。「私は先生(孔子)からこう聞いている。『孟荘子殿の親孝行ぶりは、たいていは、他人もそれをできるけれど、亡くなった父の家臣と政治の仕組みとを改めずにそれを引き継いだことは、誰でもができることではない」。
※浩→「孟荘子」は魯の家老・孟孫(仲孫)、諡(おくりな)が速で、父・孟献子の地位を世襲しました。孔子がその人物を批評した言葉について曾氏が語っています。伝統主義者の孔子らしく、父親の政治の方針や家臣の使い方をそのまま変えずに継承することを正しい「孝の道」だとしています。彼の在政期間が短く、在喪期間だけでなく彼が死ぬまで続いたので、これほどほめられたのかもしれない、と貝塚先生の解説。
不肖ながら私が父のやり方を受け継いでいることとしては、ずば抜けて“几帳面”なことです。ほとんど神経症的でした。家の中のものはほとんど全部まっすぐに置かれています。斜めになっているものはほとんどありません。今では笑えますが、それでも無意識にそうなっています。あえて乱暴にする必要もないので、なるがままにしています。これは遺伝か学習によるものか?遺伝の影響は確かめようがないですから、学習によるものとして考えると、子どものころのあれが“外傷体験”になっているのかもしれません。トラウマというほどでもないのでしょうが、小学校のころ、母屋の4畳半ほどの和室の隅に小さな机を置いて勉強していました。あるとき、それまで物置だった玄関土間の横の3畳の間を父が整備して勉強部屋にしてくれました。机の他に小さな本棚も置いて、田舎の家にしては立派な勉強部屋になりました。嬉しくて、勉強したあとそこでそのまま寝たりしていました。ある日のこと、机の上に勉強道具をほったらかして外で遊んでいて、帰ると部屋中のものが床にひっくり返っていました。途方に暮れていると、母が「あんたがちゃんと片づけんから、お父ちゃんが怒ってひっくり返したんよ」と言いました。私は泣きべそをかきながら、床に散らばっている本や文具を拾い上げて、元の場所に片づけました。あれはこたえました。父自身の身の回りのものはどれもきちんと置かれていました。圧巻は机の引き出しの中です。すべての文具類が、きちんとまっすぐ置かれているようで、1つだけ少し斜めに置いていました。母に理由を聞くと、「誰かが触ったらきっと元に戻すときまっすぐに置くから、それで誰かが触ったことがわかるんだって」と言いました。恐るべし、オヤジ!母親っ子だった私は、「大きくなったらお父ちゃんみたいになりたくない」と言っていましたが、なんのことはない。父のまんまを今もやっています。ああはなりたくないと思いながらそのままになったということは「反面教師」だったわけですか。そういえば、名匠・小津安二郎監督の映画の構図は直線的で、いろいろなモノがまっすぐに直角的に配置されていました。監督はわが父のようなライフスタイルだったのでしょうか。