論語でジャーナル
24,子貢問うて曰く、一言(いちげん)にして以て身を終うるまでこれを行うべき者ありや。子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことな勿(な)かれ。
子貢が質問した。「一言だけで死ぬまで実際に行えるようなものはありますか?」。先生は答えられた。「それは「恕」だろうね。自分にしてほしくないことは、他人にもしてはならないということだ」。
※浩→「恕」は“おもいやり”です。儒学の道徳律で最も有名な「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」です。「里仁篇」に「子曰く、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)もってこれを貫く。曽子曰く、唯。子出ず。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曽子曰く、夫子の道は忠恕のみ」とありました。「忠(まごころ)」は自己の良心に忠実なことですが、それだけでは他人に通用しがたいので、他人の身になってみて考える知的な共感が必要です。それが「如」です。「忠如」とセットになっていてより丁寧です。「忠」は内へ向かい、「如」は外へ向かうのですね。アドラー心理学ですと、例の難解な“共同体感覚”になるのでしょうか。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)というイエス・キリストの教えは「~しなさい」と善を奨励しで、孔子は「~してはいけない」と悪を禁止しています。この東西の対比が面白いです。でも、これは東洋と西洋の違いだとは言えません。モーセの「十戒」には、両方あります。
1,わたしのほかに神があってはならない。
2,あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3,主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4,あなたの父母を敬え。
5,ころしてはならない。
6,姦淫してはならない。
7,盗んではならない
8,隣人に関して偽証してはならない。
9,隣人の妻を欲してはならない。
10,隣人の財産を欲してはならない。
このうち、3,4,5だけが「~せよ」で、あとは全部「~してはいけない」です。このことから「こんなにも人間は悪に傾きやすいのか」と考えてしまいます。「実行できる善」よりも「実行してはいけない悪」のほうが圧倒的に多いです。これには考えさせられます。私たちが子どものころ親から受けた躾けもほとんど、「あれするな」「これするな」だったようです。
アドラー心理学の「共同体感覚」の概念は初めからできあがっていたものではなくて、アドラーの晩年のお仕事だったようです。これは、私が初めてアドラー心理学会総会に参加した1991年の大阪市立大学での野田先生の基調講演「共同体感覚の諸相」に詳しく述べられています。先生を偲びながら、少し引用しておきましょう。↓
<アドラーの共同体感覚概念の変遷>
アンスバッハーは、アドラーの仕事はおおむね4つの時期に区分しました。そのおのおのの時期において「共同体感覚」はどう位置づけられていたか。
第1期は1898年~1907年です。
この時期の1902年から、アドラーはフロイトのサークルに参加しました。当時アドラーは32歳で、ウィーン大学の医学部を卒業してまだ7年の若手医師でした。フロイトは14歳年上で大先輩でした。
この時期の主要な仕事は、「器官劣等性」に関するものです。
これは、子どもに生活に支障をきたすような身体器官の障害がある場合、子どもはそれに対して態度決定を迫られる。その結果、劣等性の補償をめぐって性格が形成される、という理論です。ここではまだ、個人とその個人自身の身体についての心理学的関係が扱われているだけで、個人と共同体の関係に関する考察は見られません。共同体感覚という概念もまだ提唱されていません。
第2期は1908年から1917年です。
この時期の真ん中の1911年に、アドラーはフロイトのサークルを離脱します。エディプスコンプレックスを受け入れられなかったため。1912年に「個人心理学」を立ち上げます。この時期の最初の仕事は、「攻撃性衝動」をめぐる研究です。これは、フロイトが「タナトス(死の本能)」と呼んだ意味での攻撃性(破壊性)と違って、むしろ、「積極性」を意味し、のちには、ニーチェから拝借した「権力への意志」に変化し、さらには「優越性追求」となり、ついに一般的な「目標追求」の概念に発展していくものです。そういう意味で「攻撃性衝動」は、器官劣等性から発展する「劣等感とその補償」という理論と対をなすもので、やがてやや原因論的な劣等感理論に取って代わる完全な目的論となって結実していく芽生えであると言えるでしょう。
1908年の「攻撃性衝動」についての論文の中に、すでに「共同体感覚」という用語が、かなり発達した定義を伴って出現します。その部分を引用します。
人間に生得的である共同体感覚は、攻撃性衝動への最も重要な制御因子であると考えられるべきである。共同体感覚とは、個人が、人々、動物、植物、無生物などのあらゆる対象と関係を持つときの基礎になっているものであり、われわれが自分の生命と結合し、是認し、和解する力のことである。共同体感覚の豊かな諸相、例えば、親の愛、兄弟愛、性愛、祖国への愛、自然や芸術や科学への愛、人類愛などが攻撃性衝動とともに作用するとき、個人の精神生活を現実に形成する、その人の人生への一般的態度が出てくるのである。(『攻撃性衝動』1908)
解説していきますと…
「人間に生得的である…」というのは、のちに3~4期に若干修正されます。
共同体感覚は生得的に完全な形であるのではない。「生得的可能性であり、意識的に発達させられなければならない」というふうに。
「共同体」は人間の社会のことではない。人々、動物、植物、無生物などのあらゆる対象を指す。
「われわれが自分の生命と結合、是認、和解する力」というのは、ある楽観的な、建設的な、創造的な力のこと。
「攻撃性衝動(のちに目標追求)ととともに作用するとき」ということは、共同体感覚とエゴイスティックな自己中心的な目標追求とが、ある対立的図式でとらえられている。 この図式は最後に捨てられます。エゴイスティックな目標追求と、それに拮抗・抑制する力としての共同体感覚は、フロイトの「イドと超自我」の焼き直しで、アドラー心理学らしくない。二元対立的な、心の中に2つのものがあって内部矛盾しているような図式を持っていて、これはフロイトと一緒に仕事をしている時代の特徴で、別れたら、たちまち消えていきます。
①④は変わりますが、②(対象)と③(プロセス)はアドラーの一生を通じて変わりませんでした。
ほぼ同時代に“男性的抗議”の概念があります。これは今でも使いごたえがある概念です。
男性的抗議というのは、女性は自分が女性であるために社会的に劣等な地位に置かれているので、自分が女性であることについて態度決定を迫られて、女性であることが劣等感になります。そのとき、自分が女性であることを否定する形で補償すると精神生活に影響が出てくる、これを男性的抗議と言います。確かに臨床で、女性性を否定してかかってくる患者さんは扱いにくい。アドラーは、女性の神経症のほとんどはこれだと断言している。ほんとにそうかわからないけど、頻度としては多い。
この概念がなぜ重要かというと、初めてアドラーが社会との文脈の中で劣等感を言い始めたからです。器官劣等性は自分の体とのつきあいだけど、女性であるということは、社会との関わりではじめて劣等だと定義されます。社会が女性を劣等な地位に置くから女性が自分を劣等だと思う。アドラーの理論はこのとき一挙に、社会的な心理学に変貌します。
その後この用語を引っ込めて、ニーチェからもらった「権力意志」「力への意志」を持ち出すのですが、これもやがて引っ込めます。この「力への意志」を目標に据えたときには、この力ははっきりと社会的な力、他者に対する優越、他者に及ぼす力を意味していて、アドラー心理学は完全に社会的な心理学になるのです。
1911年にフロイトと決別して、1914年にはアイデンティティーを確立しました(“個人心理学”創設)。その後アドラーは軍医として前線へ出たので、1915~17年はアドラー心理学の空白期です。
前線から帰ってきたアドラーは、グループの人々とウイーンの目抜き通りのアンバサダ・ホテルのカフェにたむろしていました。カウンセリングもそこでしました。最後にお弟子が帽子を回すとお布施が入りました。
アドラーが初めてホテルのカフェに現われたとき、弟子の1人が、「何か新しい発見がありますか?」と聞いた。アドラーは、「世界が今必要としているのは、新しい政府でも新しい大砲でもない。それは共同体感覚だ」と言いました。これは要するに、「アドラー心理学って何か」と聞かれて、「それは共同体感覚」だと1918年に答えたということ。それ以前だと、「劣等感とその補償」でしょう。……以下省略……