怒りだらけの学校
Q0384
小学校相談員をしています。その小学校では毎日何かしら怒りながら学校へ来ているようです。○○ちゃんが何々した、腹立つ、無視された、私も無視し返した。ムカついたし、靴隠した(あ、競合的なんだ)。エネルギーをもっと何かに使いませんかと思いながら、現時点ではその話を聞いているのみです。不登校までとはいかず、毎日怒りの中で過ごして、それにイヤになり、休む子どももいます。相談員としてひとまずどうすれば、怒りの毎日、まわりはみんな敵だらけから抜け出してもらえるでしょうか?皆平和に過ごしたいとは言っていますが。
A0384
怒りについてアドラーはどう書いていますか?怒りというのは、要するに、不適切な行動の4つの目標、注目関心を引く、権力争いをする、復讐をする、無能力を誇示する、の中の第2段階=権力争いをするとカップリングした感情です。その子たちは権力争いをしていて、勝つか負けるかの世界に暮らしている。勝つか負けるかの世界を競合的世界と言う。ということは、その学校は競合的雰囲気の中にある。この競合的雰囲気が子どもたちに、勝つか負けるかどっちかしないといけないと言っている。今日負けた子は明日勝とうとする。明日勝った子は、あさって負けるわけだ。そうやっていつも誰かが勝ち、誰かが負ける世界に暮らしている。
なんでそんなことになっているか?子どもたちがゲームかコミックか何かで学んでいるということもあろうけれど、やっぱり教師のせいだと思う。教師ははっきりと協力的な世界とか、みんなが問題を共有し合う世界とか、分かち合う世界とか、尊敬し合う世界とかに対するイメージを明確に持っていないことですね。アドラー心理学が理想とするような、ほんとの意味での横の関係の世界、問題をみんなで協力して解決することが一番大事だと思っている世界をイメージしていなくて、個人の問題は個人の問題、まず自分で解決しましょうよ。ちゃんと自分で解決できた人は偉くて、解決できなかった人はダメですよという、間違った自立モデルを、競合とくっつけて考える間違った自立モデルをたぶん教師が持っているんだと思う。それは違うと思う。自立というのは、みんなが自分の力を出し合うことを言う。国のことを考えてもらうとわかる。自立indipendentは国家の独立と同じ言葉です。独立というのは、国と国が競争して相手の国を負かし、自分の国が勝つことを言うのではない。みんなが力を出し合って、足りないものを分かち合って、全員がやっていけるようにするのが独立です。でも“学校的自立”のイメージは、「自分のことは自分でしましょう」で、自分のことを自分でしたらエゴイズム社会です。違う。人のことをみんなでしましょうの世界なんです。アドラー心理学が持っているイメージは絶えずそうなんです。課題を共有したいんです。共同の課題をいっぱい作りたいんです。そのために、お節介にならないように、何が共同の課題かをはっきりしたい。『パセージ』なんかで、「まず課題の分離をしましょう。それから共同の課題を作りましょう」とうるさく言うのは、「共同の課題だ」とごまかしながら、親が自分の欲望を子どもをねじ曲げることで遂げようとするから、それは違うでしょうと言っている。一度バラバラにしておいてから、話し合って共同の課題を作ってくださいと言っている。アドラー心理学が強調したいのは、みんなで問題を分かち合って、共有し合って、力を出し合って、知恵を出し合って協力しましょうね、問題を解決しましょうねということです。その社会では競争が起こらない。競争が起こらない社会では、誰が偉いも誰が劣っているもないし、誰がボスで誰が家来もない。私が出張なんかして、講演が終わって、さあ帰ろうということになると、会場の原状復帰をしないといけない。「はい、誰か仕切ってくださいね」と言うと、誰かが仕切って、「はい、あんたこっちやって、あんたこっちやって」と言う。あれ、良い姿だと思わない?あれは別に縦関係でもなく、支配服従でもなく、協力なんです。誰か決める人がいて、残りがそれに従って動くことが、最も問題解決のためにふさわしければそうすべきだし、そうしないでみんなが自分の力で動いてそうなるならそうすべきだし、そのときの状況に応じて、問題解決のために一番良い方法をとればいいと思うじゃない。「誰か仕切ってください」と言って、「はい、仕切ります」と言った人は偉い。この人大将、残り家来というわけではない。僕らは文明社会の住人ですから。でも、学校はそうじゃない。学校はいつも何かの形で序列をつけ、何かの形で上下関係をつけ、何かの形で優劣を比較したいという心があって、それが結局イライラした子どもたちを作り、いつも怒っている子どもを作ってしまうと思う。
ですから、まず基本的に教師が悔い改めるべきだと思う。相談員が教師に「悔い改めろ」と言うわけにいかないから、子どもたちと一緒に、何怒っているのか考えてみよう。そんなに怒るべきことなのかどうなのか。この世にそんなに腹を立てなきゃいけないことはないです。昔の人は、公的な怒りと私的な怒り、公怨と私怨の区別をした。これは大変良い考えです。世のため人のために怒るということはあるかもしれない。「これは許せない!」と。でも、自分の利害のために怒るべきではないと思う。自分の利害は怒りでもって解決することではないから。それは、話し合いでもって、知恵でもって解決すべきことです。でも、とんでもない悪い奴がいて、電車の中で大声で暴れているなら、これは何とかしないといけないと思うかもしれない。「あなたが今怒っているのは、それはあなた自身のためなのか、みんなのためなのか、どっち?」と聞けばいい。みんなのために怒っている子はめったにいない。「あなた自身のために怒っているんだ。じゃあ、そうやって腹立ったり、ムカついたり、悲しかったりするのは、結局自分が問題解決したいからなんだ。じゃあ、どうしたいの?で、結局どうなればいいの?」と聞いて、そのそうなればいい目標は、実際に達成できることなのか、できないことなのか。もしできるとしたら、それは怒ることでもって達成できるのか?怒ることでもって達成できないのなら、それ以外の達成法はないかどうかを、何度も何度も何度も話し合っていくと、子どもたちは学んでいく。初めは全然言っていることがわからないだろうけど。
ですから、僕たちがまず怒りというものの病理学をちゃんと持とうよ。これは権力争いなんだと。権力争いというのは、結局、勝とうか負けようか、上か下か、正しいか間違っているかを決めようとしている。そのことはほんとはたいていの場合決めなくていいんだ。もしどうしても決めたいとしても、怒り以外の方法で決めることもできる。そういうことについてこっちがちゃんと理解します。それから、子どもたちとお話したらどうですか?(回答・野田俊作先生)