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スレッドNo.211

論語でジャーナル

24,叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶(なお)踰(こ)ゆべきなり。仲尼は日月なり、得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖ども、それ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。多(まさ)にその量を知らざるを見るなり。

 叔孫武叔が仲尼の悪口を言ったので、子貢は言った。「そんなことはなさらないほうがいい。不可能です。他の賢者は丘陵のようなもので、越えようと思えば越えられます。孔子は日や月のようなもので、人間が越えることなどはできません。人間がいくら縁を切ろうと思っても、日や月にとって何の障りも起こりません。かえって自分の身の程知らずを思い知るだけのことです」。

※浩→前の条では、子貢を比較の媒介として婉曲に孔子の悪口を言いましたが、今度は露骨に悪口を言ったことになります。孔子の悪口を言うなど不可能だ。他の賢者は偉大だといっても丘陵の規模で、人間の足で踏み越えられます。孔子は月や太陽で、隔絶した高さにあります。人は誰もその影響下にありますが、人間のほうから縁を切ろうと思っても、日月のほうには何の損害もない。うーん、前の条で、野田先生より自分の話のほうがわかりやすいなどと放言したことを恥じる番です。偉大な野田先生に対して自分などたとえ“得意技”があるといっても、しょせんは小丘です。野田先生は日月に相当すると言っても過言ではありません。でも先生を“神格化”してしまうと、途端に「土着思想」になってしまいます。子貢のここでの言葉は、孔子の死後に段階的に進んでいった「儒教の創始者・孔子の神格化」を暗喩していると言われます。そういえば、西洋では英雄が神格化されることはなかったようです。カエサルもナポレオンもキリスト教会では“聖人”の座に置かれません。日本は英雄がその死語、神格化されている例が多数あります。徳川家康は“東照権現(ごんげん)様”として日光に祀られ、大石内蔵助は赤穂市の大石神社に祀られ、乃木希典は赤坂の乃木神社に祀られています。これは“八百万の神”を信じる日本独特の文化です。一神教のように独善的にならず、包容力とか寛容さの原点になっているのかもしれません。

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