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スレッドNo.215

論語でジャーナル

第二十 堯曰(ぎょうえつ)篇

 『論語』全二十篇の最後に位置するこの篇は、大変特殊な篇で、全部で三条ですが、第一条は堯・舜・禹・武王の交替に際しての言葉、その収録です。文章はどう見てもうまく続いていない。孔子のいだいた政治の理想は、堯舜以来の伝統を基礎とするために、それらを列記したのでしょう。さらに第三条、『論語』の最後の条は、「孔子曰く、命を知らざれば、以て君主と為すなきなり」は、孔子が堯舜らと同じく、帝王となる能力を持っていたにもかかわらず、時代がそれを許さないという天命を知っていたために、帝王とならなかった、そのことを明らかにしたのでしょう、と吉川幸次郎先生の解説です。

1,堯(ぎょう)曰わく、咨(ああ)、爾(なんじ)舜(しゅん)よ、天の暦数は、爾の躬(み)に在り。允(まこと)にその中(ちゅう)を執れ。四海困窮、天禄(てんろく)永く終わらん。舜も亦(また)以て禹に命ず。
 (殷の湯王)曰わく、予(われ)、小子履(しょうしり)、敢えて玄牡(げんぼ)を用いて、敢えて昭(あきら)かに皇皇后帝に告ぐ。罪あるは敢えて赦さず、帝臣蔽(かく)さず、簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が躬(み)罪あらば、万方(ばんぽう)を以てすること無かれ。万方罪あらば、罪は朕(わ)が躬(み)に在り。
 周に大賚(たいらい)あり、善人是(これ)富めり。周親(しん)ありと雖も仁人に如(し)かず。百姓(ひゃくせい)過ち有らば、予(われ)一人に在り。
 権量を謹み、法度(しゃくど)を審(つまび)らかにし、廃官を修むれば、四方の政行われん。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民、心を帰せん。民に重んずる所は、民の食・喪・祭。寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任じ、敏なれば則ち功あり、公なれば則ち説ぶ(よろこ)ぶ。

 堯帝がおおせられた。「ああ、なんじ舜よ。天の運行・運命は汝の一身にかかっている。誠実に中庸の道を握って、政治を行え。もし政治が常道をはずれ、四海の人が困窮困難したならば、せっかく天から与えられた幸福も永遠に絶滅終焉するであろう」。
 舜帝もかつて堯から聞いた言葉を禹に言った。
 殷の湯王は言った。「このささやかなるおのこ・履(湯の本名)は、あえて畏れながら、黒い牡牛をもってお供えとし、畏れながらはっきりと、天帝に告げまいらせます。罪ある者を許すわけにはまいりませんのは、天の定め、地上の定めでございます。地上の人間の善悪は、すべて天帝のみこころに選ばれ見通されている。(夏の桀王の罪は明白だが)、自らにも罪があるかも知れぬ。もしわたくしの身に罪がありますならば、それは私だけの責任です。人民たちとは無関係とお考えください」。
 わが周王朝は、大いなるたまものを天からいただいた。すなわち善き人を多く持っている。それは周(したし)き親類もいるけれど、他人でも仁の徳ある人物には及ばないとしたからである。もし人民に過ちがあれば、そのその責任は我が身一つにあるのだ。慎んで目方と升目の基準を整え、明瞭に法の尺度を定め、廃れた官を復活させれば、四方の政治はうまくいくようになる。滅んだ国を復興させ、絶えた家柄を引き継がせ、隠棲者(世捨て人)を用いれば、天下の民は政治に心を帰属させる。民の重んずるところは・食糧・服喪・祭祀にある。寛大であれば大衆の人望が得られ、信(まこと)の情があれば人民から頼りにされ、機敏であれば仕事で功績を上げ、公平であれば人民に喜ばれる」。

※浩→古代中国の伝説の聖王である尭・舜・禹の間の「禅譲」について書いていて、殷の湯王と周の武王の「仁徳」に満ちた偉大な業績についても記録されています。四海(=世界)を安定統治するための君子の王道についてや、滅んだ国の復興や断絶した家の建て直しなど「永続的な政治原則」を解説しています。人民の安楽と幸福のための政治を唱えた儒学らしく、民が重視すべきものは「人民・食糧・服喪・祭祀」と、さらに「寛容性・誠実性・機敏性・公平性」の四つを人民から敬服される徳治の要素としても挙げています。
 吉川先生の解説のとおり、文章が噛み合いにくく、解釈の分かれるところもありますが、つぎはぎで何とか一つにまとめてみました。「所重民食喪祭」は古注と新注で解釈が違います。ここでは朱子の新注にもとづいています。古注では、「重視するところのものは四つ。民・食・喪・祭」となっています。なかなか難解な箇所です。
 アドラー心理学は、創始者アドラー博士から、高弟・ドライカース~野田先生のお師匠様・シャルマン~われらがお師匠・野田俊作先生と、継承されてきました。他の流れもありますが、私たちはこの流れの中にいます。野田先生はご自分の講演の中で次のように語られました。↓
 私はアドラーの5代目の弟子。5代目にもなると、遺産はすっかり食いつぶして何もないという感じもする。そもそも最初から大した遺産はなかったという説もある。アドラーが何を残したかというのは変な考え方で、彼はどんな仕事をしたか、われわれにとって彼の仕事は何なのだろうという意味であろうと思う。
 アドラーは1902~11年までフロイトと一緒に仕事をした。これが精神科医・心理学者としての出発点で、それ以前彼がどんなふうなことを考えてどんなふうに暮らしていたか、実はあまりよくよくわかっていない。
 わかっていることの1つは、マルクス主義者だったということ。これはずいぶん遅い時期までマルクス主義に関心があった。1902,3年頃、匿名で書いた新聞記事がある。新聞の論説委員をやっていて、かなりマルクス主義的論調の記事が残っている。
 彼がマルクスのどんなところに惹かれたかに関心がある。なぜマルクスを見捨てたのかにも関心がある。
 もう1つはフィルヒョウという病理学者の弟子で、社会医学・予防医学に関心があった。治療より予防の医学。社会全体の衛生にずっと関心を持ち続けた。これは一生そう。
 この2つがアドラーの出発点です。
 文化的な背景を見ると、アドラーはユダヤ人で、ハンガリー国籍で、オーストリアの生まれ。ややこしい立場。大変彼の思想の発展に意味がある。
 フロイトと出会う前、関心があったのは、1つは社会の政治的なあり方。
 マルクス主義と別れるのは、1917年のロシア革命を見て失望したからです。それまではどこに惹かれたのか、ほんとはよくわからない。たぶん、「疎外」という概念だろうと思う。疎外というのは、“モノ化”。物化。人間を、自分であれ他人であれ、人間じゃないものとして扱うこと。道具・手段として扱うこと。疎外のない状態が、人間らしい生き方のできる状態。疎外をしていたりされたりしていると人間らしくない状態。マルクスは、疎外のない状態を、社会のシステムを変えることで実現しようとした。
 ところが、実際に革命が起こってできてきたものはむしろ悪い。人間をモノとして扱う、人間を手段として扱うという点では。実現したとたんに失望したのはその点。逆にマルクスのそういう点に惹かれていたから、彼は早い時期にマルクス主義を見捨てた。
 経済的平等にはあまり関心を示さなかった。マルクス主義の経済学的・政治学的部分でなく、心理学的な部分に関心があった。人間が他人の道具とならない生活の仕方に関心があった。これには一生関心があった。他人の道具とならない生き方、一生言い続けたことはそれ。脱疎外。私は他人の道具にならない。私は他人を道具にしない。私は自分の感情の道具にならない。私は自分の思考・イデオロギーの道具にならない。
 それを彼は、政治的なシステムの変換では達成できないと考えた。けれどもあきらめなかった。何でもって達成できるか? それは教育で達成できる。
 なぜわれわれは他人を道具にしてしまうか?そういう教育を受けるから。小さいときから他の人を道具に使うように教育されるから。自分でもそういうふうにトレーニングするから。だから、使わないようなトレーニングを受ければ、そういう社会ができるだろう。
 今僕たちが教えている育児の方法は結局これ。人間が他の人を道具にしない。親が子どもを、子どもが親を道具にしない。親が子どもをちゃんと別の人間として扱う。子どもが親を別の人間として扱う。これを例えば、相互尊敬、相互信頼、協力、横の関係という言葉で表したり、あるいは平等という言葉で表している。
 私は他人を道具にしない。他人は私を道具にしない。マルクスが言っていたより深い、心理学的な意味で言っている。
 例えば、子どもが学校へ行かないので、親が子どもについて心配しているという状態は、疎外。なぜかというと、親を安心させるために子どもに学校に行ってほしいと願っているので、親は子どもを自分の安心の道具に使っているから。だから子どもを疎外している。こんな言い方をしてもピンと来ないから、別の言い方をする。理論的にはそういうこと。
 いつも自分を他人を道具に使っていないかに、気をつけていてください。アドラーがマルクスから受けた影響では、これが一番大きいだろう(まだまだ先がありますが、ここまでにしておきます)。

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