論語でジャーナル
26,子曰く、吾(われ)は史の闕文(けつぶん)に及ぶべきか。馬ある者は、人に借してこれに乗る。今は則ち亡きかな。
先生が言われた。「私は、歴史の記述が欠けている部分については言及しないことにしている。馬を持っている人は、自分が乗れなくても、誰か(馬に乗れる人)に乗せて貰うことができる。しかし、今はそういった慎重さ・親切さがなく、人々ががむしゃらになった」。
※浩→ここは古今東西の註釈家が最も読みかねた文章で、自信満々の荻生徂徠先生も読みかねたそうです。「史の闕文(けつぶん)」からして、「歴史書に記述がないこと」と、「“史”すなわち歴史記述官吏が疑問の文字を空格にしたこと」を意味する説があって、よくわかりません。わかりやすいのは、「歴史に記述が欠けているところは、無理に想像で補っても仕方がない」と読むほうです。後半はわかりやすい。車の運転免許は持たなくても、誰か持っている人に運転してもらって乗せてもらえばいいわけですから。私が思い出す人としては、あの歌舞伎通・細川公之先生は免許を持たなくて、自転車を愛用されました。また、土木科でお世話になった平田先生は、車が必要なときはタクシーを利用されました。こちらは豪華です。彼は、人の話を聞き出すのがお得意で、岡山駅から職場までの徒歩15分ほどの距離を一緒に歩いていると、いつの間にか彼のペースに引き込まれて、いろいろなことをしゃべってしまいました。彼はカウンセラーに向いているのかもしれません。とても。聞き上手です。細川先生もお話上手な方でした。私はお2人から強く影響を受けています。大きなことを言えば、私はアドラー心理学を野田俊作先生に学びました。その先生は、アメリカのバーナード・シャルマン先生から学び、シャルマン先生はルドルフ・ドライカース先生から学び、ドライカースは創始のアルフレッド・アドラーから学んでいます。草の根の一本にすぎない私も、この脈々と伝わる偉大な系図に位置づけられているんです。とても誇らしいです。
さて、「共同体感覚の概念の変遷」の続きです。前回の「攻撃性衝動」に続きます。↓
続いて、「男性的抗議」という概念を提唱しました。
これは器官劣等性からの類推で(オチンチンがないのは女性にとって器官劣等性)、女性は社会的に劣等な地位に置かれているため、自分が女性であることについて態度決定を迫られ、このとき、その劣等感を過剰に補償して、女性であることを否定して、男性よりもっと男性っぽい人になることを言います。
この概念の価値は、初めて社会的な文脈の中で劣等感を考察した所にあります。のちに、体の障害に止まらず、一般的な主観的な劣等感の理論に発展し、アドラー心理学の認知論(→仮想論)の基礎になっていきます。
ちょうど、共同体感覚が攻撃性衝動の抑制因子であると考えられたのと同様に、大きな劣等感は共同体感覚の不足を意味し、共同体感覚が発達すれば、劣等感は軽減すると考えられています。
第3期は、1918年から1927年までです。この時期の最初を飾るエピソードがあります。アドラーは第1次大戦に軍医として従軍しますが、復員して、仲間と集う路上のカフェに初めて姿を現したときのことです。
誰かがアドラーに、「何か新しいことがありますか?」とたずねました。彼は、「世界が今必要としているのは、新しい政府でも新しい大砲でもない。それは共同体感覚だ」と答えました。
この時期のアドラーの仕事の中心は、ライフスタイルの概念です。共同体感覚は健全なライフスタイルの指標であると考えられ、正しい目標追求を可能にする因子であると考えられました。この時点ではまだフロイトの「超自我」に似て、共同体感覚はどちらかというと、「誤った目標追求の抑制因子」であると考えられていたのです。
しかしこの時期に、共同体感覚の理論に1つの発展があります。それは先ほど言ったように、「生得的に存在する」という考え方が撤回されて、「生得的可能性であり、意識的に発達させなければならない」というように修正されたことです。これはアドラーが、育児や教育の力が共同体感覚の育成に不可欠であると考え始めたことを意味します。
第2期のアドラーの仕事の中心は神経症者の心理療法でしたが、第3期には教育カウンセリングの仕事に比重が移っていったことに伴う変化でしょう。
第4期は、1928年から1937年です。
児童相談所の仕事を辞めることになります。ナチの迫害でオーストリアにいにくくなって、次第に海外、主にアメリカで活動するようになり、1934年には正式に亡命します。
そうして臨床の基盤を失い、講演とスーパービジョンで暮らすことになると、いっそう共同体感覚論が前面に出てくる。
共同体感覚という名前の生き方、共同体感覚という名前の目標追求が。エゴイスティックな目標追求があってそれを共同体感覚が修正する、という考えから完全に脱却する。
この時期には、共同体感覚が理論の中核になりました。育児と教育の必要性はますます強調され、治療から予防へ、すなわち、異常の修正から健康の育成へと、話題の中心が変化します。
67歳、円熟期の最中に講演中のスコットランドで突然亡くなります。14歳上のフロイトは翌々年に死ぬんですが、あとは弟子たちの仕事になります。