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スレッドNo.298

小4男子の友だちの母親をアドラーに改造できないか?

Q 
 小学校4年生の男の子がいます。仲良しの友だちと塾へ行っていますが、2人とも基本的には勉強が嫌いなので、いつでもやめたいと思っています。しかしお友だちのお母さんが普通のお母さん、つまりアドラーママじゃないので(野田:そうか、アドラーママは普通じゃないお母さんなんだ)、「勉強をちっともしないんだから塾は絶対やめたらダメ」とその子が言われているので、うちの息子も彼につきあって毎週通っています。2人ともブツブツ言いながらやめずに今まで続いていますが、その子の母親をアドラーに改造しようというのは、2人の子にとって良くないことでしょうか?

A
 良いことなんですけど、改造されないでしょうね、きっと。多くの日本中の全お母さんをアドラーに改造したいものだと私は思っているんですけど、向こうは商品を買わないんですよ。で、押し売りをすると結局ダメなんです。アドラーを押し売りしたことはないですが、学校の先生なんかが変にカウンセリングかなんか勉強して、(学校の先生がカウンセリングを勉強する運動に反対しようと思っているんですが)、望んでないお母さんに、自分で学んだことの押しつけをやるんです。そうするとお母さんはいっそう意固地になって違うことをやったり、あるいは望んでないけど先生に脅されてその方向でやったら、変な中途半端な育児になったりして、かえって具合が悪いように思うんです。アドラー心理学の押し売りをすれば、「あなたの息子さんは、あなたが今アドラーを学んでおかないと、将来きっと非行少年か精神病者になるでしょう」くらいのことを言うて押し売りすれば売れるでしょうけれど、そういう姿勢で学ばれてもあまり身につかないでしょう。身についても中途半端な身につき方をするから、変な母親になるだろうと思う。子どもを殴る親がいるでしょう。「あんたバカね、バチーン」と。それが変に心理学を勉強すると、殴ろうと思ったときに、心理学が止めるんです。「子どもを殴ってはいけない」と。手を振り上げて、子どもを殴ってはいけないと思う。子どものほうは殴られると思っているのに、お母さんの手が止まってしまうんです。子どもにはすごく不気味です。なんで止まっちゃっているんだろうと思うでしょう。その母親は、昔殴っていた母親よりも子どもにとってはもっと扱いにくい。それだったら、いっそ殴ってくれるほうが、私としてもいいと思う。徹底的にアドラーやって、「今までの育児を全部やめます、罰するのをやめます」だと、これはベストなんです。その次に良いのは子どもを殴っている母親で、殴るのやら殴らないのやらわからん中途半端に止まっている、時には殴り時には殴らんとか、殴ろうと思って止まって、怒りながら口先だけ「ごめんね」というようなややこしいコミュニケーションはやめてほしい。そんなことになりそうに思う。もしもどうしてもアドラーの宣伝をしたかったら、お宅の坊ちゃんとしっかりつきあうしか手がないと思う。ブツブツ言いながら塾へ行くとか、友だちが行っているんだから僕も一緒に行ってあげようとかいうのはすごく良いことだと思う。子どもを快適な環境で、快不快の「快」ね、快適な環境で暮らさせようと思ってない、アドラー心理学は。一生にはつらいことがいっぱいあるだろうと思う。僕たちが子どもたちをすごく快適な環境で暮らさせたら、つらいことを乗り越える力がなくなるじゃないですか。だから、塾イヤで学校イヤで先生嫌いというのは、子どもを鍛えて強くするのに良いチャンスです。この子はそれに耐えてくれているから、その耐えてくれていることを勇気づけしたい。「塾嫌いなのに毎日よく行くね。すごい感心しちゃう」と言ってあげたい。「あなた見てるとすごく頼もしいと思うし、あなたのことを誇りに思う」って言ってあげたい。そうすると子どもはもう少し気軽に塾へ行けます。バックアップがあるから、精神的な。そうやって子どもとの関係がほんとの意味で良くなっていけば、お友だちのお母さんも、「あんたとこうまいこと躾けてるね。どうやったらああなるの?」と聞きに来るから、そしたら「実はね…」ってこう教えられます。実績を見せないと、口先だけで「アドラーを」と言っていても、自分の息子とまだちゃんとできてないように思うんです、この話を聞いていて。「スポック博士の育児書」だとか「親業」だとかがアドラーと違う1つの点は、子どもを楽にしてやろうと思っているところです。もちろん僕らは子どもを苦しめようとは思っていない。苦しめようと思わなくても、この世には苦しいことつらいことがいっぱいあります。昨日まで幸せに暮らしていたのに、突然地震が来てみな潰れる世の中なんです。そのときに人間のほうが潰れるか潰れないかは、人間の強さによるでしょう。今までに全然つらい目に遭ってこなかった人は潰れますね。赤ちゃんが生まれて、赤ちゃんをつらい目に遭わさないために保育器で育てます。快適な温度で、お腹が減ったらスッとミルクが出てきて、おしめが濡れたらすぐロボットが取り替えてくれて、何もしないで20歳まで育ったら、その人はどんな人になっていると思う?植物人間でしょう。何にもできない人になっています。僕たちが成長して賢くなっていって強くなっていくのはどうしてかというと、赤ちゃんの状況というのはつらいんですよ、大人の状況よりも。だって自分でおしめ替えられないし、自分でお腹いっぱいにならないでしょう。つらいもんだから、何とか大きくなってお父さんお母さんみたいに歩けて、自分でご飯食べられて自分でトイレ行きたいと願うわけです。子どもには劣等感があるわけです。その劣等感を克服する力でもって賢くなっていく。子どもを快適にしちゃうと劣等感が小さくなって、それを克服しなくてよくなるから成長しなくなります。今塾へ行くのはすごく大変だと思うけど、こんなのはチャンスなんです。子どもが成長するチャンスですから、たくさん勇気づけてあげてほしい。お勉強することも大事ですけど、友だちと一緒にいることもすごく大事です。友だちがつらいときに一緒につらい目に遭ってあげるというのがほんとの友だちで、雨の日の友だちがほんとの友だちで、晴れて天気の良いときには誰でも一緒にいられますが、つらくなったときに一緒にいないと何にもならない。遠藤周作さんの「沈黙」というものすごい怖い小説があります。読むと夜寝られなくなる。キリシタン迫害の話です。そこに1人のキリシタンの男の人が出てきます。この人はすごく心の弱い人で、主人公のポルトガル人の神父さんを何度も何度も何度も裏切るんです。「俺だってキリシタンが認められて迫害されていないときだったら良い信者でいられて、ちゃんと天国まで行けただろう。今みたいに迫害されているから裏切らないとしょうがない」と言うんです。でも僕は思う。天気の良いときに、国がキリスト教を認めているときキリスト教徒でいられる人は、ほんとのキリスト教徒かどうかわからないので、キリスト教徒か死ぬかどっちか選ぶ、生き残りたかったらキリスト教をやめる、キリスト教でいるなら死ぬという状況でキリスト教徒でいる人はキリスト教徒だと思うんです。これは別に踏み絵もないし死刑もないですが、友だちが苦しい目に遭っているときに自分だけ逃げ出して、自分は楽をしようというのは友だちじゃなくて、苦しいのに一緒にいるのはほんとに良い友だちですから、「あんたすごい良い友だちよね。尊敬できる」と言ってあげないといけない。で、子どもがどれだけちゃんと大人になれるかというのは、勇気づけの力による。勇気づけが褒めるのと違うのは、子どもがつらがっているとき苦しんでいるときに勇気づけできる。そのときこそ勇気づけしないといけない。子どもが喜んでいるとき、学校で良い点を取ったとか、お友だちと楽しく遊べているときは、別に勇気づけしなくていいんです。もうそのことで勇気づけられているから。子どもの点数がすごく悪かったとか、お勉強嫌いなのにやっているとか、子どもの気分の悪いとき、これが勇気づけをしてあげる場面なんですよ。だから工夫していつも勇気づけしてあげてください。(回答・野田俊作先生)

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