MENU
63,523

スレッドNo.31

論語でジャーナル

29,子曰く、人能(よ)く道を弘(ひろ)む、道の人を弘むるにあらず。

 先生が言われた。「人間が道を広めるのであり、道が人間を広めるのではない」。

※浩→「道」というのは、思想・主義・孔子が『道』としての思想・主義・宗教などすべて一定のイデオロギー形態を指すと考えます。人は思想・主義・宗教などが独自で存在しているように考えますが、あくまで「人間が主体」であって、人間によって考えられ、人間によって信じられ人間によって主張されつつ世の中に広まり、後世に残っていく。孔子は人間中心主義・人本主義です。キリストや釈迦、ムハンマドのような宗教家とは異なります。儒学の背景にも「天の思想」や「葬儀の祭礼」などが確かにありますが、孔子は「怪力乱神を語らず」と言っていたように、人間の思惟や判断を中心にして己れの思想に磨きをかけているのです。
 「人間が主体」というのは、アドラー心理学を学ぶ者として、とても共感します。基本前提のトップに「個人の主体性」とあるくらいですから。アドラーは哲学者ニーチェの影響を受けていますから、それまで神が与えていた人生の意味を、人間が自ら発見しなければならないと考えました。有名な『人生の意味の心理学』(高尾利数訳、春秋社)から高尾先生の解説に次のようにありました。↓
 アドラーの心理学は、例えばフロイトのそれと比較すると、「主観心理学」と呼ばれうるものであり、フロイトの「客観心理学」とは対照的である。この場合、「主観的」ということによって、何が意味されているのかを正確に理解することが必要である。アドラーによればそれぞれの個人が生涯にわたって、そのすべての行動の中核としてしまう「ライフスタイル」は、非常に早い時期──アドラーによれば、5歳の終わりくらいまで(浩→今は10歳くらいまでと考える)──に形成されてしまう。その際、その個人が、男であるか女であるか、甘やかされてきたか、無視されてきたか、家族の中でどのような位置にいるか、身体的な欠陥(=器官劣等性)を持っているか、どのような容貌を持っているか、などの諸要因が大きな影響を与えることを、アドラーは認めるが、しかし、それらの要因が絶対的、究極的な意味で言われるのかというと、彼はそうは考えない。それらの諸状況、諸経験は、その個人によって解釈されて受け入れられる(認知される)のである。個人が、それらの因子や状況や経験を、どのように理解するかが決定的なのである。この解釈あるいは理解が、協同(協力)の方向に向かうのか、それとも「私的世界」の中にとどまり、マイナスの方向での努力をするようになるかが、その人の一生を右にするか左にするか決めるのである。そして、各人が自分の人生に不可避的に与える解釈や理解や意味が、その人の人生の方向を決定するのである。何度も読んだ『人生の意味の心理学』ですが、また読み直したくなりました。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top